山口県萩市出身。旧姓は川本。一高を経て、東京帝国大学に入学し、1922(T11)在学中に学生連合会を組織し、'23日本共産党に入党。'25卒業後、徳田球一(19-1-31-2)らと党再建に従事。
'27(S2)中央常任委員となったが、翌'28の3・15事件で検挙される。これは別称「第二次共産党員大量検挙」と呼ばれ、検挙者1568人、起訴488人を出した。志賀は治安維持法で有罪、以後18年間獄中生活をおくる。獄中でも一貫して転向拒否を貫いた。
敗戦後の'45.10.10、GHQの指令に基づき徳田球一らと共に府中刑務所から釈放。非転向での解放で徳田と共に英雄的に迎えられた。出獄と同時に党再建に参画し、党中央委員、政治局員として「蔚弊」の主筆。'46.4.11第22回衆議院議員総選挙(大選挙区制)で大阪府第1区から出馬して初当選し、第23回の選挙も当選した。
'50占領下の平和革命路線であった共産党をコミンフォルムが批判した後、志賀は徳田らの武装闘争路線ではなく、「志賀意見書」を提出し反論して国際派に属したが、党内の反主流派とされ、党員資格を停止され事実上除名された。また、同年GHQより公職追放対象者とされ議員の地位を喪失されたため、地下活動に入る。
'55共産党が武装闘争路線を放棄したことを契機に、再び出現し、共産党の常任幹部会員として、宮本書記長の平和革命、議会活動重視路線を支持した。同年.2.28第27回衆議院議員総選挙に以前と同じ大阪府第1区から出馬し当選(以後連続4回当選)。同年、'53北京で客死していた徳田の遺骨を引き取るために、徳田の妻の徳田たつ(19-1-31-2)と共に、日本とまだ国交がなかった中国に共産党員として初めて合法的に訪問をした。
'64.5.21党議に反して部分核停条約批准に賛成し、神山茂夫とともに分派活動に走り党から除名された。同年.6.30共産党を除名された神山茂夫、中野重治、参議院の鈴木市蔵らと共に〈日本のこえ〉を創立し、全国委員長となる。共産党のほとんどは宮本を中心とした従来の執行部を支持したことなどもあり、志賀は支持基盤を多く失い、'67.1.29第31回衆議院議員総選挙で初めての落選。以後、同派は混乱と低迷を続ける。'77同派は<平和と社会主義>と改称。'79共産党がソ連共産党と関係修復をしたため、志賀は日本の共産主義運動における後ろ盾も失った。主な共著書に『獄中十八年』がある。享年88歳。
<コンサイス日本人名事典> <講談社日本人名大辞典> <人物20世紀など>
*墓所は洋型墓石に「志賀義雄」、裏面「一九九〇年三月 志賀多恵子 建之」、右面「小弟 位里 書」と刻む。この書は部分核停条約批准に賛成し志賀義雄と共に日本共産党改革の意見書を提出し除名された芸術家の丸木位里のことである。墓石の後ろ壁左側には志賀義雄の顔のレリーフがはめ込まれている。墓所の左右に墓誌が建ち、右側墓誌に志賀義雄と妻の多恵子。左側墓誌には多恵子の両親、父の渡辺為三(1880.4.1-1956.9.10)は裁判官。母はヒサヲ(1880.4.1-1956.9.10)、兄で早死した真一(1901.12.11-1910.6.18)。『前衛』の初代編集実務責任者をつとめた平木恭三郎(1912-2001)、妻の登美子(1919-2006)の名前が刻む。
*志賀義雄の妻の多恵子は旧姓の渡辺多恵子名義で義雄と同じく共産党の社会運動活動や経済研究家として活動した。また結婚してまだ一年も経っていない3・15事件で二人とも検挙され、義雄は非転向を貫いたため18年間離れ離れとなった。
第329回 非転向と除名 獄中十八年 日本共産党 志賀義雄 お墓ツアー
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