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しが たえこ

志賀多恵子

しが たえこ

1906.1.30(明治39)〜 1995(平成7)

昭和期の社会運動家、経済研究家

埋葬場所: 25区 1種 76側 1番

 埼玉県北足立郡浦和町(さいたま市浦和区)出身。裁判官・判事の渡辺為三、ヒサヲ(共に同墓)の長女。旧姓は渡辺。
 学生時代から社会問題研究会に所属し、三瓶孝子らと活動した。1927(S2)東京女子大学社会学科卒業。卒業と同時に、同.5 志賀義雄(同墓)と結婚し共産党に入党。結婚後も、社会運動活動では旧姓の渡辺多恵子として活動した。
 しかし、志賀義雄と結婚した翌年(1928)、3・15事件で義雄らと共に検挙される。これは別称「第二次共産党員大量検挙」と呼ばれ、治安維持法で検挙者1568人、起訴488人を出した。病気で保釈され出獄。療養後、運動に復帰。'32 再検挙され、懲役2年執行猶予5年に処せられる。
 その後は、大原社会問題研究会に所属し、研究員として櫛田民蔵や宮城タマヨ(旧姓は植田:22-1-68-1)らと活動をした。また理研調査所に入る。
 敗戦後、'45.10.10 GHQの指令に基づき、非転向を貫き18年間獄中にいた夫の志賀義雄と徳田球一(19-1-31-2)が府中刑務所から釈放。非転向での解放で英雄的に迎えられ、出獄と同時に二人は党再建に乗り出す。これに伴い、多恵子も共産党に再入党し、婦人部で活躍した。義雄が「日本共産党(日本のこえ)」を結成した際には会計責任者に就任。その後も夫と共に歩んだ。
 傍ら「資本論」や「経済学」の研究を行い、日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」に恐慌理論の反省『恐慌の根因と恐慌における政治と経済』、労働調査時報『同一労働・同一賃金の原則とは何か』など多くの寄稿や研究発表を行った。著書に『資本論の根本問題』(共著)、訳書にM.E.リューダーヌ『知られざる軍隊』などがある。1992.12(H4) 経済労働研究会と『アジア・太平洋の多元的民主主義による共通の安全保障と経済協力』を著した。

<市民・社会運動人名事典>
<人事興信録など>


レリーフ

*墓所は洋型墓石に「志賀義雄」、裏面「一九九〇年三月 志賀多恵子 建之」、右面「小弟 位里 書」と刻む。この書は部分核停条約批准に賛成し志賀義雄と共に日本共産党改革の意見書を提出し除名された芸術家の丸木位里のことである。墓石の後ろ壁左側には志賀義雄の顔のレリーフがはめ込まれている。墓所の左右に墓誌が建ち、右側墓誌に志賀義雄と妻の多恵子。左側墓誌には多恵子の両親、父の渡辺為三(1880.4.1-1956.9.10)は裁判官。母はヒサヲ(1880.4.1-1956.9.10)、兄で早死した真一(1901.12.11-1910.6.18)。『前衛』の初代編集実務責任者をつとめた平木恭三郎(1912-2001)、妻の登美子(1919-2006)の名前が刻む


*同時期に共産党員として活動を共にした福永操(旧姓は波多野、是枝:8-1-16)が著した『あるおんな共産主義者の回想』 (1982)にて、志賀多恵子を実名にて当時の状況が暴露されている。操は大学の後輩である。
 福永操の著作では、学生時代、多恵子は新人会の東大生の林房雄と付き合っていたが、いきなり志賀義雄に乗り換えた。多恵子は豊艶な美人で京人形のようであったため男子学生から人気であった。林房雄は貧しい学生であったが、志賀は名望家の一人息子であり、仕送りでぜいたくな生活ができていた。また志賀は共産党のビューローの関係者であり、東大生よりも一段上の立場であった。このわかりやすい乗り換えに、新人会の仲間から悪評された。操は有能で見てくれが良い党員の是枝恭二と結婚したため、多恵子からいろいろ嫌がらせをされた。是枝は操に「多恵子さんは君にジェラシーを持っているようだから気をつけろ。彼女の前で私に話しかけるな」と忠告されたそうだ。
 しかし、3.15事件で志賀義男、多恵子、是枝、操ら全員が逮捕された。裁判闘争は仮出所の多恵子が仕切ったが、獄中で佐野学と鍋山貞親が転向宣言を発すると多恵子も同調し共産党を離れた。転向しない志賀を見捨てて離婚。その後、鍋山と婚約しようとするが、鍋山の懲役が思ったより長くなることを知ると中止したという。
 多恵子は共産党から離れたため戦時中は親のコネで大蔵省調査局に勤務した。出獄した操が多恵子と会った際に、戦局の成り行きを率直にしゃべったところ、公安部に垂れ込まれた。共産党から完全に決別したのかと思ったが、戦後、最期まで非転向を貫き出獄した志賀義雄に近づき復縁。この復縁は徳田球一たちから猛反対されたが、志賀自身は復縁を受け入れ、以降、志賀夫人として毎日党本部に出てきては幅を利かせた。多恵子のことを陰で「淀君」とあだ名をつけ若いメンバーから恐れられていた。と操は回想している。
 なお福永操が当時を回想した暴露本を出版した際に、志賀多恵子も志賀義雄もご健在であった。出版翌年には『運動史研究』11号に「座談会 労働運動のなかの先駆的女性たち」と題して、福永操の他、丹野セツ(渡辺政之輔の妻)、鍋山歌子(鍋山貞親の妻)、山内みな(橘直一の妻)、大竹一燈子(大竹久一の妻)、鈴木裕子らが集まり発刊。後に「女たちの証言」(1996)として映画化され、女性運動家たちが経験した差別や隷属が自らの言葉で語られている。

<『あるおんな共産主義者の回想』福永操>


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