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みやぎ たまよ

宮城タマヨ

みやぎ たまよ

1892.2.1(明治25)〜 1960.11.19(昭和35)

大正・昭和期の社会事業家、政治家、女性初の参院議員

埋葬場所: 22区 1種 68側 1番

 山口県吉敷郡山口町(山口市)出身。植田久之丞の二女として生まれる。旧姓は植田。
 1914(T3)奈良女子高等師範学校博物家事部卒業し、母校の助教諭となる。'20〜'23 大原社会問題研究所で児童保護問題を研究。研究員として櫛田民蔵や志賀多恵子(旧姓は渡辺:25-1-76-1)らと活動をした。
 '22 翌年より施行される旧少年法制定に伴い、文部省・司法省の嘱託としてアメリカに派遣され、社会教育、少年保護事業などを研究した。また矯正保護や犯罪予防の世界会議に出席。帰国後、東京少年審判所で日本最初の婦人保護司に就任した。'26 退職、翌年、35歳の時に、前妻の その(同墓)を亡くされた49歳の宮城長五郎(同墓)の後妻として結婚。年の差は14歳。二人の間には寅二郎(同墓)を儲けたが、4才で亡くしている。'42(S17)夫とも死別。
 戦後、'47.4.20(S22)第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し初当選。戦前は衆議院と貴族院からなる帝国議会であるが、戦後は立法機関として衆議院と参議院からなる国会にかわった。そのためこの選挙が参議院の初めての選挙であり、かつ女性も立候補ができ、国民の成人男女が投票できる選挙。この選挙で女性初の参議院議員となった。なお参議院は250の議席に対してタマヨを入れて10名の女性議員が誕生している。
 参議院選挙よりも一年前に、'46 戦後初の衆議院議員選挙が行われ、日本で初めて39名の女性国会議員が誕生しているため、女性政治家(女性初の代議士)としては衆議院の方が早い。ただし衆議院選挙は大日本帝国憲法下の最後の帝国議会選挙であり、現在の日本国憲法下としての選挙は参議院からであり、かつ参議院自体の初の選挙である。
 参議院議員となったタマヨは緑風会に所属。第3回選挙にも当選し参議院議員を二期つとめた。任期中、婦人・青少年問題の解決に尽力したほか、'56 売春防止法成立の有力な推進者の一人として活躍。また、'52 破壊活動防止法案の審議で「扇動条項」の削除を強く主張した。
 この間、中央青少年問題協議会委員、売春対策審議会委員、更生保護審議会委員、司法保護協会理事、日本女子社会教育会理事、共立女子大学評議員、参議院図書館運営委員長などを務めた。
 '57 イギリスでウェストミンスター寺院のチャイムベルに示唆を得、全国六四ヵ所の少年院と婦人補導所に「母の鐘」を寄贈することを決意。私財を投じて、'59 成し遂げた。主な著書に『台所の心』(1944)、『私の歩み−−続 台所の心』(1952)などがある。享年68歳。

<日本女性人名辞典>
<現代日本朝日人物事典>
<人事興信録など>


墓所 墓誌

*墓石は和型「宮城長五郎 / 室 タマヨ 之墓」、裏面「昭和十八年六月吉日 宮城タマヨ 建之」、右面に二人の戒名と没年月日が刻む。宮城長五郎の戒名は顯正院殿法哲義光大居士。タマヨの戒名は華鏡院殿法雲明珠大姉。墓石右側に並んで「為宮城長五郎家各霊菩提」と刻む宝篋印塔が建つ。また宮城長五郎とタマヨの戒名が左右に刻む。右面に長五郎の前妻の宮城その(T15.8.10・行年50:東洋拓殖総裁の吉原三郎の叔母にあたる)、長五郎とタマヨの子息の宮城寅二郎(S4.6.5・行年4才)が刻む。裏面「昭和十八年六月吉祥日建之 / 吉祥 / 昭和十八年六月二十五日建之」と同じような刻みが並び、「功徳主 宮城タマヨ」と刻む。墓所左側に「宮城長五郎君顕彰碑」と題した碑が建ち、宮城長五郎の略歴などが刻む。文章最後に「昭和十六年六月」とあり、篆額は阿部信行、撰文は鹽野季彦であることが刻む。また裏面「宮城長五郎氏顯彰會」の刻みもある。



第339回 戦後女性初の参議院議員 日本最初の婦人保護司 母の鐘
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