埼玉県出身。農家の宮城藤次郞の二男として生まれる。兄(長男)は宮城保之助で、その息子で甥にあたる宮城実は大審院判事を務めた。弟(三男)に工学博士で東北帝国大学教授・宮城県知事を務めた宮城音五郞。先代の とく の養子となり、1884(M17)家督を相続した。
1906(M39)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、千葉地方裁判所で司法官試補となります。'08 判事となり、東京地方裁判所に着任。八王子の裁判所予審判事、東京地裁判事を経て、'13(T2)東京区裁判所検事に異動し、司法省参事官、司法省大臣官房保護課長に就任した。保護課長として旧少年法及び矯正院法の成立に尽力。これにより「少年法生みの親」と称されるようになる。
また、'25 成立した治安維持法にも司法省政府委員として関わる。この時は、犯罪を未然に防ぐという観点から成立に賛成であったが、その三年後の共産党一斉検挙の三・一五事件や、死刑も盛り込まれた治安維持法改正に際しては、「刑罰主義に負けた」として批判した。
当時は金融恐慌や軍事色が強くなってきている時期であり、労働運動や共産主義運動など多くの活動家が思想犯として治安維持法違反で検挙されていた。長五郎は無差別に逮捕された人たち、起訴猶予者・執行猶予者の保護のための組織である帝国更新会を設立し会長に就任。司法保護協会会長にもなり司法保護事業に尽力した。
'26.3 大審院検事に移り、東京地方検事正、長崎控訴院検事長、名古屋控訴院検事長などを歴任。五・一五事件、血盟団事件、明糖脱税事件、神兵隊事件、帝人事件などを担当した。
'39.8.30(S14)阿部信行が組閣した際に司法大臣に就任。大臣としてまっさきに取り掛かったのは、司法保護事業の発展。'36 成立した思想転向をしない者は刑期が終わっても出獄できない法律「思想犯保護観察法」により設けられた保護司および嘱託保護司の制度を発展する形で、「司法保護事業法」の制度を成立させた。これにより司法保護団体と司法保護委員が制度化された。'40.1.16 総辞職するまで務め、総辞職する二日前に貴族院勅撰議員に任じられ、無所属倶楽部に属して政治家として活動した。在任中に逝去。正4位、勲3等。享年63歳。
'26(T15)前妻の その(同墓)と死別。'27(S2)東京少年審判所で日本最初の婦人保護司として活動していた35歳のタマヨを後妻に迎えた。年の差は14歳であり、長五郎は49歳であった。二人の間には寅二郎を儲けたが、4才で亡くしている。なおタマヨは戦後、女性初の参議院議員を務めた。
<コンサイス日本人名事典> <日本近現代人物履歴事典> <人事興信録など>
*墓石は和型「宮城長五郎 / 室 タマヨ 之墓」、裏面「昭和十八年六月吉日 宮城タマヨ 建之」、右面に二人の戒名と没年月日が刻む。宮城長五郎の戒名は顯正院殿法哲義光大居士。タマヨの戒名は華鏡院殿法雲明珠大姉。墓石右側に並んで「為宮城長五郎家各霊菩提」と刻む宝篋印塔が建つ。また宮城長五郎とタマヨの戒名が左右に刻む。右面に長五郎の前妻の宮城その(T15.8.10・行年50:東洋拓殖総裁の吉原三郎の叔母にあたる)、長五郎とタマヨの子息の宮城寅二郎(S4.6.5・行年4才)が刻む。裏面「昭和十八年六月吉祥日建之 / 吉祥 / 昭和十八年六月二十五日建之」と同じような刻みが並び、「功徳主 宮城タマヨ」と刻む。墓所左側に「宮城長五郎君顕彰碑」と題した碑が建ち、宮城長五郎の略歴などが刻む。文章最後に「昭和十六年六月」とあり、篆額は阿部信行、撰文は鹽野季彦であることが刻む。また裏面「宮城長五郎氏顯彰會」の刻みもある。
第338回 少年法生みの親 思想犯も人間だ! 司法保護事業に尽力 宮城長五郎 お墓ツアー
|