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ふくなが みさお

福永 操

ふくなが みさお

1907.5.8(明治40)〜 1991.1.11(平成3)

昭和期の社会運動家、著述家

埋葬場所: 8区 1種 16側

 兵庫県神戸市奥野平野町出身。裁判官の波多野高吉、教育者の 濱子(共に同墓)の二女として、父の赴任先で生まれる。旧姓は波多野、是枝。
 1924(T13)北海道立札幌高等女学校を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会の結成に参加。いくつかの女子大学生と連携し研究会は女子学連となり、連絡係に就任し、志賀多恵子(旧姓は渡辺:25-1-76-1)らと女子学生運動を指導した。
 '27(S2)日本共産党に入党し本格的に活動。'28.1 志賀義雄(25-1-76-1)から勧められ「無産者新聞」編集長だった是枝恭二と結婚。未婚時代は波多野操として、結婚後は是枝操として活動。しかし、同.3.15 三・一五事件で是枝らと検挙された。これは別称「第二次共産党員大量検挙」と呼ばれ、治安維持法で検挙者1568人、起訴488人を出した。これにより大学を退学。
 仮出所し、'33頃から地下活動に入り、欠席裁判で懲役三年に処せられる。'34.2 治安維持法再犯として検挙され懲役二年を追加され逮捕服役した。同.6.10 三・一五事件で検挙後獄中にいた夫の是枝恭二が獄死。'40 出獄し、是枝の死を知る。
 戦後、'48 福永基三(同墓)と再婚。'55 日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、経済学を学び、思想研究や運動史研究を行った。また「源氏物語」研究を続けた。著書に『共産党員の転向と天皇制』(1978)、『あるおんな共産主義者の回想』(1982)、『「源氏物語」の女たちと作者』(1990)がある。
 晩年の回想録で戦前の共産党の内情を赤裸々に語っている。当初はマルクスやレーニンの著作の学習に熱意を持って取り組んでいたが、徐々に男性党員の根強い女性蔑視、女性軽視に違和感を持つようになったと振り返る。党指導部は、婦人運動を階級闘争よりも下に見て、党員の婦人運動への参加に反対するようになる。いつしか女性党員は男性党員と結婚させられ、共産党の最高幹部たちの家を維持する役割であるハウスキーパーとなった。よって女子学連はハウスキーパー養成所であり、党員と結婚した女子党員は妻にはなったが、夫の活動内容には一切関与させず、アジトをつくり、レポ(連絡)、飯炊き、洗濯、その他の亭主幹部の身辺雑用に追い回され奴隷のように酷使させられた。評議員婦人部の大切な婦人大衆組織活動も実際にはほとんどすることができなかった。そして自分が尊敬し信頼していた同志や指導者から受ける蔑視や差別がひどく、男幹部の付属物という扱われ方であり、精神的にひどい打撃であり、加えて何も知らない中で、夫と共に連座で逮捕され醜い拷問を受け起訴された。と回想している。
 なお『あるおんな共産主義者の回想』 (1982)を著した翌年には、『運動史研究』11号に「座談会 労働運動のなかの先駆的女性たち」と題して、福永操の他、丹野セツ(渡辺政之輔の妻)、鍋山歌子(鍋山貞親の妻)、山内みな(橘直一の妻)、大竹一燈子(大竹久一の妻)、鈴木裕子らが集まり発刊。後に「女たちの証言」(1996)として映画化され、女性運動家たちが経験した差別や隷属が自らの言葉で語られている。享年83歳。

<市民・社会運動人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<20世紀日本人名事典>
<「あるおんな共産主義者の回想」福永操>


墓所

*墓所には4基。正面に和型「波多野髙吉 濱子 之墓」。墓所右側に和型「波多野あぐり墓」、裏面「明治三十九年一月四日卒」。和型「波多野豊墓」、裏面「明治四十三年一月十日卒」。墓所左に洋型「福永家」、右面「一九九一年五月十一日 福永基三 建之」、裏面が墓誌となっている。福永操、夫の福永基三(1993.6.8 行年81才)が刻む。



第509回 戦前の共産党の内情を暴露した共産党運動家
女性共産党員はハウスキーパー 福永操(波多野操・是枝操) お墓ツアー


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