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岡田文吉 | |
おかだ ぶんきち | |
1901.7.6(明治34)〜 1966.10.10(昭和41) | |
昭和期の社会運動家 | |
埋葬場所: 19区 1種 31側 2番 (徳田球一同墓所) | |
鳥取県出身。鳥取中学中退後の昭和初め頃に上京。1929(S4)10月プロ科創立と共に書記局に属した。 反宗教闘争同盟結成懇談会などに参加。反宗教闘争同盟準備会の発足で中央委員となる。'31日本戦闘的無神論者同盟結成で中央部役員、組織部長に就任。 だが、たび重なる当局の圧迫による非合法下に伴って、岡田らの労働者派と秋沢修二らのインテリ派と内部で対立が深刻化した。 共青運動に従事。'33年8月5日共青機関紙『われらの戦士』等を配布・連絡中に逮捕され、同年10月10日起訴。 懲役4年の実刑に処せられ北海道網走刑務所へ。'39出獄。同年8月渡満。実兄の経営する自動車運送会社に勤務していたが帰国。41年太平洋戦争勃発前に中国へ渡った。 毛沢東の根拠地延安に赴き、獄中指導部徳田球一(同墓)、国領五一郎らの指示をうけ野坂参三に連絡。 野坂と共に日本人反戦同盟員として活動。'43在華日本共産主義同盟に加わった。敗戦延安で迎え、'45年12月帰国。 翌年日本共産党第5回党大会で中央委員並びに党書記局員。GHQの追放による党主流派の地下潜行後は、財政部長や党中央海事部最高責任者となり、「人民艦隊」を秘密裡に指揮し、また「トラック部隊」の活動にも加わった。 '55第6回全国協議会(六全協)で党中央委員並びに中央書記局員。その後も第9回党大会まで出席し、多くの役職についた。 夫人の岡田ハル(ハル子)も日本共産党員であったが、岡田文吉の死の翌年に党から除名された。 <社会運動家人名事典>
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