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おがさわら ただのぶ

小笠原忠忱

おがさわら ただのぶ

1862.3.8(文久2.2.8)〜 1897.2.6(明治30)

幕末・明治期の小倉藩主、伯爵

埋葬場所: 2区 1種 4側 11番
(大きな倉状の納骨堂)

 幼名は豊千代丸。号は錦陵。豊前国小倉藩の第9代藩主の小笠原忠幹の次男。兄は安志藩主の小笠原貞孚。
 4歳の時に父が卒し、藩主不在のまま、譜代である小倉藩は長州藩と対立。 慶応2年に始まった第二次征長では、小倉に本営が築かれ、小笠原長行の指揮下に下関口の戦闘に参加。同年7月将軍徳川家茂の訃報により、長行などが引き揚げ孤立し、8月小倉城を炎上させ、田川郡香春に藩庁を移した。 1867(慶応3)わずか6歳にして家督を継いだ。官位は従三位。幼少だったため、家老の小宮民部、島村志津摩らの補佐を受けた。 1869(M2)から廃藩置県まで豊津藩知事。1873イギリス留学、1878帰国。以後、豊前育英会をつくり郷土の人材育成につくした。 1884また伯爵を授爵。享年36歳。

<幕末維新人名事典など>


*武家・小倉(豊前)藩・15万石。信濃小笠原氏の後胤。明治2年に忠忱は戊辰戦争における奥羽出兵に功あり、 廃藩置県後の明治17年7月7日に伯爵を授爵した。忠忱→長幹→忠春→忠統

*浅草海禅寺に葬られたが、昭和初期に多磨霊園に改葬された。多磨霊園の中で一番大きなお墓である。倉状の納骨堂になっている。

*現在は取り外されているが、改葬当時は納骨堂の上部に「相輪」があった。下記の写真は戦前に「茶屋 よしのや」で販売されていた絵葉書の写真である。写真を提供してくださいました徳川葵様ありがとうございます。

小笠原伯爵納骨堂小笠原伯爵納骨堂 現在
改葬当時2011 現在

<徳川葵様より写真提供>


※2020年代前より小笠原家の大きな納骨堂が更地になっているという情報を受けており、2022年多磨霊園より確実になくなったことが確認できました。「歴史が眠る多磨霊園」では、掲載したことをご縁と思い、歴史を学ぶきっかけを多くの方々に提供する目的であるため、このページをこのまま掲載し続けることとします。なお、小倉藩初代小笠原忠真が創建し小笠原家の菩提寺は福岡県北九州市にある福聚寺(墓は現存している)。江戸で亡くなった3代から7代や小笠原忠忱以降は、江戸菩提寺であった浅草の海善寺に葬られておりましたが、昭和初期に多磨霊園に改葬し大きな納骨堂に眠っていた。代々の菩提寺に戻したのか不明のためご存じの方はご一報ください。


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