山口県萩市平安古町出身。陸軍大将で内閣総理大臣を務めた田中義一、ステ(共に同墓)の長男として生まれる。
幼少の頃は病気がちであり、生後10か月で脱腸を患って手術し、5歳の時にはウサギの蒲焼をたくさん食べ、サイダーをかぶ飲みしたことが原因で赤痢と判断され生死をさまよう。6歳の時に東京にいた父の義一に引き取られ上京。7歳の時に丹毒菌に感染し1年半入院生活を送り、退院後は小田原の旅館で療養していたが、そこは海軍指定の軍人療養所であり軍人にかわいがられた結果、結核になった。その後、回復し暁星小学校に遅れて2学期から入学したが、頻繁に病気になり入退院を繰り返していた。これらの経験から病院がトラウマになり嫌いになる。しかし、暁星中学校に進学すると、これまでの病弱生活とは一転し健康体となる。
龍夫が生まれたとき、父の義一は麻生3連隊の隊長で、龍夫が数え15歳(中学生)の時に政界へと進出。1927(S2)内閣総理大臣に就任した。この頃、父から「教経」の素読を命じられ、また家政の一切を任され、義理の弟や妹の面倒を見ることを言われる。この時の田中家は、祖母と実母のステが病弱で寝たきりになっており、側室的な第二夫人(妾・養女縁組し認知している)の出口ふみ子との間に子どもを儲けており、異母兄弟がいた。大家族の家政を任され、父から呼び出しがあれば夜中でも駆け付けなければならず、勉強に専念ができなかったため一高の受験に失敗。浪人することになる。
浪人生に家政は任せられないと、家政を執事に任せ、龍夫を英文学者の岡倉由三郎宅に預けられ勉強に専念。ところが、'29.9.28 張作霖爆殺事件や昭和天皇叱責により内閣総辞職をした2か月後に父の義一が急死した。浪人生の龍夫が家督を相続し、男爵の爵位を授爵。父の急死に伴う家族会議では強く進学を希望し、受験は今回限りという条件となる。そこで一高受験を諦め、浦和高校、学習院高等科、成城学園の3校を受験し全て合格。第一希望であった浦和高校に入学した。フランス語が得意であり卒業後、東京帝国大学法学部に進学。高校から引き続き乗馬部に入り主将を務めた。また、満州国開発学徒調査団が編成され応募し満州に派遣された。
2人の母親と義理の弟1人と妹3人の面倒を見なければならないことから、学生の身でありながら結婚を決意する。複雑な家庭の事情を理解し家族の面倒を嫌がらずに見れることを条件として結婚相手を探し、東洋汽船社長の高橋勇の二女の節子が全てをクリアし、'34.5.30(S9)結婚。家族たちの面倒を見つつも、龍夫と節子が住む家は別々とした。
'37.4 東京帝国大学法学部を卒業し、南満州鉄道(満鉄)に入社し満州へ渡る。当初は妻の節子も連れていく予定であったが、病弱であったため日本に残し単身赴任。満鉄では総務室人事課人事係に配属された後、調査部に移り、「綏遠事件」(すいえんじけん:'36中国の綏遠省東部で起きた内モンゴルと国民政府軍の武力衝突事件)後の調査に当たった。その後、危険なビルマへの潜伏が命じられたが、本社から東京支社調査室への転勤が下り、3年ぶりに東京に戻った。
【企画院と貴族院議員時代】
'40.4 企画院が創設され、満鉄の職員から高等官7等8級として企画院に入る。鉄・石炭の調査を主とし、大陸情報を得るため、元々いた満鉄東京支社調査室に顔を出し、そこで先輩の尾崎秀実(10-1-13-5)と再開し夜遅くまで酒を飲んだ。後に尾崎がゾルゲ事件でスパイとして逮捕されると、龍夫も警視庁から参考人として出頭要請を受け、警視総監の安倍源基から取り調べを受けた。警視総監直々に取り調べをするのは異例中の異例であり厳しく取り調べられたが、昔の同僚と酒を飲んだだけであるため何も出ず、夕方には無罪放免で釈放された。
'42.8.27 周防灘台風で山口県は死傷者1300人以上を出す被害が出たため、企画院で民需物資の統制管理に当たっていた龍夫が派遣された。この時期は太平洋戦争で物資統制による物資不足であり、復興支援は難渋を極めた。特にセメント工場が被害を受けており、軍需物資でもあることから、復興に重要なセメントが手に入らなかった。そこで、朝鮮半島からの調達を思いつき、政府の特使として朝鮮に渡り、セメント提供を求めた。当時の朝鮮総督は父の後輩の小磯国昭であり、そのコネに自信を持っていたが、小磯は関東軍の要請に応えるだけで精一杯だとセメント提供を拒否。それを聞き、龍夫は態度を一転させ、自分の命令は政府の命令であると言い、現地調査を行い、山口県の復興に必要なセメントを捻出できることを指摘し、国家総動員法に基づいてセメント提供を求め、小磯は観念して供出した。セメントを日本に運ぶ船がなかったため、山口県から漁船を呼び寄せ運んだ。陸軍にかなりの量を徴収されたが、これをきっかけに山口県の宇部興産の創業者の渡辺裕策と親しくなる。
その後、軍需省軍需官。京浜いすゞ自動車販売、播磨工業各社長を務めた。'46 終戦後、男爵であったことで、互選により貴族院議員(男爵議員:1946.5-1947.5.2)となる。一方で米内内閣の商工大臣の小笠原山九郎の秘書や農林大臣秘書官を兼任した。貴族院議員としては日本国憲法の制定に関わる。
【山口県知事時代:任期(2期)1947.4.16-1953.3.24】
'47.5 貴族院議員が解散するが、それに先立って、同.4.25 公選知事選挙の山口県知事選挙を出馬。国会議員よりも知事の方がGHQの目が届かずに抵抗することができると考えた。父親代わりの久原房之助が公職追放されていたため、紹介された大阪在日台湾人の呉百福が支援した。呉百福は後にチキンラーメンやカップラーメンを開発し日清食品を創業する人物(安藤百福)である。同い年でもあり意気投合。支援のお陰もあり、山口県知事選挙に当選した。しかし、龍夫が企画院で働いていた経歴をGHQが問題視し認可されずにいたが、久原房之助が総理大臣の吉田茂を通じて、GHQに「新しい社会を担う人材を追放するべきではない」と進言。当選19日目にして正式に第29代(公選では初代) 山口県知事に就任した。
当時の山口県は周防灘台風の被害が回復していないこと、終戦直後で復員や引き揚げ者で人口が増加、食糧不足で配給が欠配する日が続いているなどの混乱期であった。龍夫は農村部に回り農家に米の提出を頼むが、知事が直々に頭を下げることで農家は断れず、結果的に強制的な徴収と受け止められ激怒。農家は共同農民党の議員らと龍夫を取り囲み、トラックの中に連れ込むという事件が起きた。
GHQによる財閥解体の一環として過度経済力集中排除法を制定し、企業分割する325社を指定。その中に、宇部興産もあったが、龍夫は宇部興産の解体を反対。この頃、アメリカとソ連の関係が悪化し、アメリカの日本の統治方針が一転、企業分割も見直され、分割されたのは18社に留まり、ほとんどの企業が指定から解除。宇部興産も解体を免れた。
'47.12 昭和天皇の全国巡行で山口県訪問することが決まる。山口県は朝鮮半島が近いことから多くの在日朝鮮人がおり、昭和天皇暗殺計画の噂が飛び交ったことで、山口巡業を中止するようにと要請したが、昭和天皇は自分の身はどうなってもかまわないと決意している旨を聞く。そこで久原房之助を介してGHQに警備の要請を頼み、米軍MPが昭和天皇の警護を担当。地元の青年団にも協力を促し、何事もなく遂行された。
女性問題対策審議会を設置し男女同権にも力を入れ、戦没遺族の擁護にも尽力。一方で、朝鮮戦争で一時、北朝鮮軍の快進撃により韓国政府が南へと追いやられた際に、韓国政府が山口県に亡命することを希望してきた。その数は韓国人6万人。食糧難の状況で更に6万人の受け入れは困難であると頭を抱えていた時、'50.9.15 アメリカ軍による仁川上陸作戦が成功したことで、韓国・国連軍の反撃が始まり、亡命の話は消滅した。
'50.9.13 キジア台風で被害を受けた際、どこよりも早くファックスを導入していたことで、災害情報を集約して東京との連絡連携がスムーズにできた。また、この時、日本で初めて自衛隊に災害支援を要請。これがきっかけで自衛隊が災害支援に出動するようになった。
'52.1.18 韓国初代大統領の李承晩が「李ライン」を宣言(後の竹島問題につながる)。GHQは既に「マッカーサー・ライン」を制定しており、アメリカと日本は抗議をしたが、韓国は無視をした。そのため、韓国と隣接する海洋を持つ山口県の漁船は次々と拿捕され問題となった。知事職は外交権がないため、今回もまたGHQに発言力を持つ久原房之助に相談をし、対日理事会のシーボルト議長に働きかけ、韓国に拿捕された漁船の釈放に成功させた。
山口県知事を2期目を務めていた時に、'53.3 吉田茂首相のバカヤロー解散があり、これは天の啓示だと思い、政界に出て国のために尽くそうと衆議院議員選挙の出馬を決意した。
【衆議院議員時代:当選13回:1953.4.20-1990.1.24】
'53.4.19 第26回衆議院議員総選挙に山口1区から無所属で出馬して初当選(以降13回当選)。当選後、自由党に所属した。山口2区の岸信介が吉田茂首相を批判し自由党から除名されると、龍夫も追随して自由党を離党し、'54.11 岸と共に日本民主党結成に参画。第5次吉田内閣総辞職後、同.12.10 日本民主党の鳩山一郎が総理大臣に就任した。その後、'55.11 日本民主党と自由党が合同し、自由民主党が結成。'57.2.25 岸信介が総理大臣に就任すると、龍夫は内閣官房副長官に任命され、岸の右腕として活躍。'58.6.12 第2次岸内閣では自民党副幹事長、国対副委員長として岸内閣を支えた。
この間、'54 欧米と中南米を視察訪問。戦争の影響で欧州では日本の評判が悪く、中南米では各地を植民地化していた白人と戦い敗戦したが日本は高く評価されていた。中南米での日本の評判が高いのは、戦前移住した日本人の腸であることも知り、日本国内の深刻な食糧不足解消の国策として中南米への移住再開を検討するに至る。'62.7 日本海外移住家族会連合会を結成し、会長に就任した。移民の渡航費返済打ち切り、移民の結婚問題、移民への勲章授与など移民のために尽力。特にブラジルへの思い入れが強く、現地では龍夫は「ブラキチ」と称された。
'67.11.25 第2次佐藤栄作内閣の第1次改造内閣で、総理府総務長官に就任し初入閣。佐藤内閣の最大の問題であった沖縄返還問題に奔走し、沖縄返還に尽力。また、小笠原諸島の返還も実現させ、北方領土問題にも取り組んだ。一方で山口県知事時代の経験を活かし、災害対応にも活躍し、反対を押し切り、都道府県単位に提供する激甚災害法を地区単位で適用した。
'76.12.24 福田赳夫内閣では通産産業大臣に就任。新エネルギー問題に取り組んだ。'80.7.17 鈴木善幸内閣では文部大臣に就任。核融合反応などの新エネルギー研究を推進した。'81.11.30 党三役の1つである自由民主党総務会長に就任。'86.7.6 第38回衆議院議員総選挙で13期目の当選を果たした。
'89.11(H1) 体調不良を訴えたため、妻の節子と長女の由美子は、医者嫌いであった龍夫を無理やり、朝日生命成人病研究所へ検査入院をさせる。脳内の血管に豆粒ほどの出血が見つかる。次の選挙も出馬をすれば当選確実であったが、家族に心配させないためにも政治家からの引退を決意した。龍夫は2人の息子がいたが世襲せずに、河村建夫を後継者に指名。河村建夫の父の河村定一は県会議員として龍夫を支えていた人物である。なお、引退表面を早めに伝えると、対立候補が現れて票が割れるため、'90.1.24 海部内閣が解散したタイミングで政界引退を公にした。同.2.18 第39回衆議院議員総選挙では山口1区の地盤を河村建夫に譲り当選させた。同.4.29 勲1等旭日大綬章。同.7 祝賀会には約800人が駆け付けた。
政界引退後も、生涯福祉財団や退職公務員連盟などの会長を引き受ける一方で、妻孝行として夫婦で旅行を楽しんだ。'94.2 妻の節子に癌が見つかり、同.9.15逝去。妻の死から2年後、'96.5.13 足がもつれて転倒。しゃべり方に違和感があったため、精密検査を受けたところ硬膜下血腫と診断される。手術は成功し退院するまでに回復したが、同.9 再入院。'98.3.30 急性心不全のため逝去。同.4.1 築地本願寺で葬儀が営まれた。同.5.14 自民党葬と山口県民葬の合同葬が営まれ、2200人が参列した。
*正面和型「田中義一墓」、左面に略歴が刻む。墓所左側に五輪塔「田中家之墓」、裏面が墓誌となっており、妻のステから始まり、健雄、節子、龍夫、素夫の順で刻む。墓所には3対ずつ計6個の灯篭が建つ。昭和五年五月に贈られた灯篭には「世話人 / 理事 井上清介 / 幹事長 熊川千代喜」と刻まれている。
*父の義一は、実母ステ(寿天:1874-1937.9.26 同墓)と1893結婚。龍夫と長女の政子(陸軍中将の橋本勝太郎の養女となり、依田悌に嫁ぐ)を生む。ステが病弱であったため、側室的な第二夫人(妾・側室制度がないため養女縁組し認知している)の出口ふみ子との間に1男4女を儲ける(子供は全員認知し、三女の登米子が実母の山口ふみ子の養子に入る形をとる)。二女の寿美子(大志摩毅に嫁ぐ)。三女の登米子(山口県知事や政治家を務めた小澤太郎に嫁ぐ)。四女の於菟女(おとめ:住友信託銀行取締役の藤井達朗に嫁ぐ)。二男の義昭(大洋漁業専務)。五女の康子(倉田家に嫁ぐ)。また養子に敏雄(T10離縁。敏雄の長男の健雄は同墓に眠る・S18.8.24歿 享年23才)養女に八重。龍夫は長男として、義一が政界に進出した数え15歳より家政を任され、この大家族を支える。さらに義一没後は多くの方々の支えの中、大家族が独立するまで養った。
*田中龍夫の妻は節子(1914-1994.9.15 同墓)。節子は東洋汽船社長の高橋勇の二女。2男1女を儲ける。長男は田中素夫(1936-2009.1.26歿 同墓)。次男は田中卓次。長女の由美子は日本飛行機会長の鷹崎正敏に嫁ぐ。素夫は政治家の道を歩まず日本製鋼株式会社に勤めた。
第118回 災害対策・沖縄返還、人のために捧げた政治家 田中龍夫 お墓ツアー 父の急死で一家の長へ
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