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ほしの なおき

星野直樹

ほしの なおき

1892(明治25)〜 1978(昭和53)

昭和期の官僚、政治家

埋葬場所: 7区 2種 32側 4番

 神奈川県出身。大蔵省営繕管財局国有財産課長在任中の1932(S7)推されて「満州国」官吏に転出、同国財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て、37国務院総務長官に就任。 在任中は東条英機らとともに「満州国」を動かす〈2キ3スケ〉の1人として同国の財政経済を統轄した。 帰国後は第二次近衛内閣のもとで企画院総裁に就き、資本と経営の分離などナチスばりの革新理念を盛った経済新体制要綱原案を作成、自主統制を主張する財界との間に激しい摩擦を生じて41辞職。 貴族院議員に勅選されたが、同年東条内閣の出現とともに書記官長に起用され、以後東条退陣に至るまで東条側近として大きな発言力を保持した。 その間、総力戦研究所長事務取扱・同参与、国家総動員審議会委員・企画院参与等もつとめた。辞任後は大蔵省顧問。敗戦後A級戦犯として極東軍事裁判で終身刑を宣告されたが、58放免された。 のち、旭海運社長・東急電鉄取締役・ダイヤモンド社会長などに就任。

<コンサイス日本人名事典>


*父はキリスト教伝道者の星野光多(同墓)。祖母も伝道者の星野るい。叔母の星野あい(同墓)は女子教育に尽力した津田塾学長である。

*星野家之墓の墓石裏面に光多、あい、直樹の刻みがある。


【二キ三スケ】
 満州の実力者の東条英機・星野直樹の二人の「キ」と、満州の三スケと言われ満州国の実験を握っていた山口県出身の三人、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)。この五人を「二キ三スケ」とも呼ぶ。

*鮎川義介(10-1-7-1)


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