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ほしの みつた

星野光多

ほしの みつた

1860(万延元)〜 1932.7.7(昭和7)

明治・大正・昭和期のキリスト教伝道者、牧師

埋葬場所: 7区 2種 32側 4番

 群馬県沼田出身。戸鹿野の豪農の宗七・るいの次男。1868(M1)父の宗七が横浜に出て生糸貿易を営む「星野屋」を開業し、その二年後、一軒家を建て、沼田から妻、光多、四男の喜作を呼び寄せた。 1870英語を学ぶ目的でJ.H.バラ宣教師の指導を受け、その感化により1874.12.27(M7)バラから授洗。 1879同人舎という英会話塾に4ヶ月間のみ通う。同級に服部金太郎(6-1-1-10)がいた。1879(M12)慶応義塾で3年間学ぶ。交詢社の社員になるが、1884秋に星野屋が倒産したことを機に一家は沼田へ帰郷した。 同年の春にヘボン塾に通っていた母の星野るいもキリスト教に関心を持ち授洗し、のちに伝道者となる。 また三男の星野又吉ものちに牧師になり、帰郷直前に生まれた五女の星野あい(同墓)はのちに津田塾学長になる。 星野屋の倒産で失意に陥ったことが、星野家がキリスト教への深い信仰のきっかけとなった。
 光多は帰郷後、政治家を志し、群馬県下の演説会で政治演説の活動をしていたが、湯浅治郎(7-1-15)と知り合ったことを機に、1883(M16)7月から献身し、高崎で伝道を開始した。 翌年、西群馬教会(高崎教会の前身)を設立して牧師となった。服部金太郎を支えた時計技師の吉川鶴彦、日本銀行第十三代総裁の深井英五、牧師の長坂鑒次郎らを授洗した。 また伝道のかたわら英語を教えていたため、英語を学ぼうとする青少年が集まり、俳人の村上鬼城、教育者の堤辰二らから師事された。 1887.9.15(M20)高崎英和学校を開校した竹越與三郎(5-1-21)とも親交があり、開校式典で祝する演述をしている。
 1888西群馬教会牧師から、東京の下谷一致教会に赴任。その後、フェリス和英女学校の教頭を8年間務めた。 教頭時代に宮城女学校で校長と対立して退学にされた相馬黒光(星良)(8-1-5-3)を受け入れ、入学させている。 1891.7.15妹の幸(北海道大学教授の高杉栄次郎夫人)とフェリス和英女学校の同級生で親友であり、この時、講師を務めていた長谷川みね(同墓)と結婚した。 1899から両国教会牧師。アメリカに留学して、ユニオン神学校で学んだ。帰国後、津田英学塾の教師を務めた。その後、朝鮮・満州・台湾への伝道を行った。享年73歳。
 光多・みねの間に3男1女を儲けた。2キ3スケの1人として満州国で実権を握り、戦後A級戦犯となった星野直樹(同墓)は長男。 トンネル建設の第一人者である星野茂樹(?〜1972)は次男。長女の花子はミシガン大学教授の日系二世の山極越海に嫁ぐ。 参議院議員、静岡新聞主幹、ケニアにて日本アフリカ文化交流協会設立などに尽力した星野芳樹(1909〜1992)は三男。

<日本キリスト教総覧>
<『星野光多と群馬のキリスト教』星野達雄>


*星野家之墓の墓石裏面に光多、あい、直樹の刻みがある。

*星野芳樹の墓所は日本基督教団沼田教会メモリアルパーク内の墓地。


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