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ほしの あい

星野あい

ほしの あい

1884.9.19(明治17)〜 1972.12.5(昭和47)

大正・昭和期の女子教育者(津田塾学長)

埋葬場所: 7区 2種 32側 4番

 横浜で生糸貿易業「星野屋」を営んでいた星野宗七・キリスト教伝道者の星野るいの五女として生まれる。 兄に伝道者の星野光多(同墓)。甥に星野直樹(同墓)がいる。生後まもなく「星野屋」が倒産し、一家は群馬県沼田に帰郷した。 両親はこの失意のどん底で授かった子を、「『神は愛』をもって、試練の最中にも神の御手が差し伸べられていること、希望は決して失望に終わることがないという強い確信と平安を得たことであろう」と考え、“あい”と名付け、一家はキリスト教信仰をさらに深めた。
 沼田小学校に学び、兄の光多の助けによって横浜フェリス女学校、'04(M39)東京の女子英学塾(津田塾大)を卒業した。 この間、1887キリスト教受洗。津田梅子が自身の留学を感謝し、他の日本人学生にも海外留学を推進するため「日本女性のためのアメリカ女性の奨学金」を作り、それに選ばれアメリカのブリンマー・カレッジ理学部に留学、'12卒業。 この留学に同じく選ばれた中に、津田塾大4代目学長の藤田たき、恵泉女学園創立者の河合道子、同志社女子高等学校長の松田道子がいた。
 帰国後、女子英学塾の教師となる。'18(T7)コロンビア大学教育学部に留学、学位を得て帰国。'19英学塾教頭、'23関東大震災により校舎が全焼する危機にあったが、梅子と共に支えた。 '25塾長代理を経て、'29(S4)津田梅子の死去に伴い、梅子の志を継ぎ、女子英学塾第二代塾長に就任した。 '31東京府北多摩郡小平村(小平市)に新校舎を完成させ、'33「女子英学塾」から初代塾長の名前を冠とした「津田英学塾」と改称した。 この頃の日本は戦争時代へと突入している時期であり、女子中等教育における英語は廃止状態となっていた。 そのため英語教師の需要はなく、入学志願者も激減した。そこで'43理科(数学科と物理化学科)を増設し、「津田英学塾」から「津田塾専門学校」と改称して学校の維持に尽力した。 戦時中は、校舎と寮のひとつを軍に接収され、生徒は学校工場に働きながら勉強を続けた。
 終戦後'48、前年公布された学制の改革に伴い、津田塾専門学校を大学に昇格させ「津田塾大学」を設立し、その初代学長となる。同年、学芸学部英文学科を設立し、翌年、数学科増設英文学科と数学科をもつ学芸学部とした。 また図書館の募金の大事業に取り組み、図書館のための募金に心血を注いだ。この図書館設立を讃え、星野あい記念図書館とされている。 また同大学では、情報数理科学科の成績優秀な4年生に与えられる「星野あい賞」がある。'52退任し名誉教授となった。この間、汎太平洋東南アジア婦人協会日本委員、国際基督教大学評議委員、日本国際協会婦人部委員なども務めた。 '55(S30)藍綬褒章および女性文化賞受賞。、また大学婦人協会のJAUW(Japanese Association of University Women)ホームズ奨学金第1回授与受賞者・名誉会員となった。 この賞は10名選出され、その他受賞者は、植村環(1-1-1-8)、吉岡彌生(8-1-7-9)、井上秀、大橋広、黒田チカ、辻マツ、羽仁もと子、保井コノ、山崎光である。 津田梅子が印した日本の女子高等教育の第1歩をさらに推進し、拡充させ、一生を女子教育にささげた。津田塾大学名誉学長。勲三等宝冠章。享年88歳。

<日本キリスト教総覧>
<日本女性人名辞典など>


*星野家之墓の墓石裏面に光多、あい、直樹の刻みがある。


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