東京市麹町出身。日本基督教会指導者の植村正久・季野(共に同墓)の3女。姉の澄江は牧師の佐波亘に嫁ぐ。
14歳頃から早天祈祷を続け、1905(M38)富士見町教会で父の正久より洗礼を受けた。1910 女子学院専門部卒業。'11 医師になるため渡米したが、途中で哲学に転向し、'15.6(T4)ウェルズリー大学を卒業。帰国後は、漢学塾二松学舎で論語などを学びながら、津田英学塾、女子学院の教師を務めた。
'17.4.24 川戸州三と結婚(環は26才)。'18.5.13 長女が誕生。父の正久が、その日が日曜日であり再臨にちなんで「俟子」(まちこ)と命名した。「俟つ」とは常に宮仕えする心である。積極的に主の御用に当たり、しかも謙遜にして常に祈って主の御声を聴く態度である、という意味が含まれている。'18.6.15 夫が聖日の礼拝を終えて駆けつけてきた近親者に看取られて35歳の若さで死去。環は生後1年1カ月の俟子と、胎内にいる未知の子を遺され未亡人となる。同.11.6 長男が誕生。正久が「晴彦」と命名した。だが、'23.4 晴彦が発熱で寝込み、5日目には熱が引いたが後遺症で小児麻痺にかかる。環は種々可能な限りの手を施し、治療のために東北の温泉場まで出かけたが、同.10.3 環の腕の中で天に召された。なお、同.9.1 関東大震災もあり、前後する形で、'20 妹の恵子が米国留学中に客死したこと、'25 父の正久が急逝したことがきっかけとなり、伝道師になる決意をした。
'25.9 渡英しスコットランドのエディンバラ大学ニューカレッジ(神学部)で学び、'29.12(S4)帰国。渡英中、一人娘の俟子は母の季野が面倒を見ていた。環の帰国を待つように半年後('30.6.9)食道がんで亡くなった。
'30.4 日本基督教会東京中会で教師試補の准允を受ける。同.9 東京女子大学、日本神学校、東京聖経女学院の講師。同.10 東京淀橋柏木の自宅で伝道を開始し、'31 柏木伝道教会を設立した。'34 日本基督教会東京中会で、富田満の動議により、日本で2番目の女性牧師となる。'37.10 柏木教会建設式並びに牧師就職式が行われた。'37〜'38 台湾総督府が行ったキリスト教主義学校弾圧に抵抗運動を起こし、台南長老教女学校の校長をつとめた。
婦人キリスト教運動の指導に力を注ぎ、'37〜'61 日本YWCA(キリスト教女子青年会)会長をつとめ基礎を築いた。また、'38〜'51 世界YWCA副会長もつめた。後に日本YWCA名誉会長。戦災で柏木教会は焼失した。
戦後、昭和天皇と香淳皇后にハリー・S・トルーマン大統領へのメッセージを託される。'46.4.30 民間人としては初めて、公式渡米をしてトルーマン大統領に講演を行う。帰国後、香淳皇后から内親王たちへの聖書講義の依頼を受け、聖書を毎週講義した。時には昭和天皇も傍聴したと言われ、皇室で聖書を教えた女性として注目された。背景には当時の宮内庁長官の田島道治、侍従長の三谷隆信がクリスチャンであった関係ともいわれている。
'47戦災で焼失した柏木教会堂を再建。'50.11.11 平塚らいてう らとともにアメリカのCIAのアレン・ウェルシュ・ダレス長官に全面講和を要請した。キリスト者の立場から平和問題に力を尽くし、'55 下中弥三郎(24-1-10-6)、前田多門(16-1-3-7)、茅誠司、湯川秀樹、平塚らいてう、上代たの とともに世界平和アピール七人委員会を結成して、核実験禁止を訴え、婦人運動家としても活躍した。
'51.5 小野村林蔵ら植村正久の薫陶を受けた牧師たちの主導の下に、42の教会が日本基督教団を離脱して、日本基督教会(日本キリスト教会)を設立する。植村環と柏木教会は、同.7 東京中会に加入した。主な著書に『来たれ往け』、『朝の光土より』、自伝『私の歩んだ道』、『植村環著作集』(全3巻)がある。'73(S48)体力の衰えを理由に牧師を引退した。享年91歳。
*墓石正面「植村家之墓」。裏面が墓誌となっている。植村正久の両親の植村祷十郎、貞子。正久と妻の季野。娘(3女)でキリスト教婦人運動家の植村環らが刻む。右側に「植村正久先生碑」が建ち、略歴が刻み、「法学博士勲二等 鵜澤總明 撰」「埜本白雪の書」「昭和十八年六月」との刻みあり。裏面は「昭和十八年十一月七日」と刻む。
*植村正久と季野(旧姓山内)は、1882(M15)に入籍。季野は山内繁憲の二女、牧師の山内量平の妹。4女を儲ける。長女の澄江は正久の弟子で牧師の佐波亘に嫁ぐ(1914)。次女の薫は夭折。三女の環はキリスト教女性運動家となり植村家を継ぐ。四女の恵子は米国のハートフォードに留学中に客死。澄江の子に佐波正一(経営者)、佐波薫(編集者)、中村妙子(翻訳家)がいる。