メイン » » » 下中弥三郎
しもなか やさぶろう

下中弥三郎

しもなか やさぶろう

1878.6.12(明治11)〜 1961.2.21(昭和36)

明治・大正・昭和期の教育運動家、出版事業家

埋葬場所: 24区 1種 10側 6番

 兵庫県多紀郡今田村(丹波篠山市今田町)出身。別名は下中芳岳。2歳で父を亡くし、7歳で祖父を亡くし、8歳の時に住家も失ったため、小学校に3年間しか在学できず陶工となり家計を助けた。周囲の助けで独学で勉強し、1899(M32)小学校教員検定試験に合格し、兵庫県神戸市の小学校代用教員となる。
 1902退職し上京。小栗栖香平と『児童新聞』を創刊。'05『婦人新聞』の記者を兼ねる。また日本女子美術学校の講師('05〜'07)をつとめた。'10中等教員教育科検定試験に合格し、'11〜'18(M44〜T7)埼玉県師範教諭となる。この間、'14.4平凡社を創業し、小型百科事典『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版し成功。
 '19農本主義の影響を受け、教え子の青年教師を中心に教育者の互助団体として「啓明会」を結成、教員の社会的自覚、自由獲得のための団結を訴えた。翌年、日本教員組合啓明会と改称。学習権の確立、教育委員会制度、教員組合結成の促進をふくむ「教育改造の四綱領」を発表。同年、機関紙『啓明』を創刊し、「文化学会」(島中雄三主宰)に参加した。
 '20(T9)第1回メーデーに参加し代表演説をする。'21ロシア飢饉同情労働会議を結成。'22『労働週報』を創刊。'23『万人労働の教育』刊行し、野口援太郎らと「教育の世紀社」を創立した。'24教育の世紀社を母体に、児童中心主義の「児童の村小学校」の設立にも協力。'25教育擁護同盟を結成し、義務教育費全額国庫負担を要求、半額負担を勝ち取る。また、石川三四郎(25-1-85)らと農民自治会を結成し、労働運動や農民運動の指導者となる。'31〜35(S6-S10)『大百科事典』の出版し成功。
 '31経済問題研究会を組織し、以後、政党組織運動に進み、大アジア主義者として活動。'32日本国民社会党準備会を結成し、赤松克麿らとの結党直前に決裂し、新しく新日本国民同盟を結成して本部委員長に就任した。'40大政翼賛会発会に協力。大日本興亜同盟の役員になる。戦後、公職追放。'51追放解除により平凡社社長に復帰した。
 '53日本出版クラブ初代会長。世界連邦運動に力を入れ、'55湯川秀樹らと世界平和アピール七人委員会を結成。'55〜'59『世界大百科事典』を出版。'56出版文化国際交流会初代会長、'57日本書籍出版協会初代会長に就任するなど、出版界の重鎮として活躍。'59息子の下中邦彦(同墓)に平凡社を引き継ぎ会長に退いた。'61勲1等瑞宝章受章。享年82歳。没後、'62.6下山記念財団が設立された(2012.4.1内閣府の認定を受け公益財団法人へ移行)。

<コンサイス日本人名事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<下中記念財団「教育と平和」下中弥三郎の理念>


*墓所には墓誌も墓石への彫刻もないが、裏面に建立者が刻まれており、『昭和二十四年五月下中弥三郎建主』とある。

*息子の下中邦彦(同墓)は、平凡社を引き継ぎ、百科事典ブームの火付け役など、出版界の風雲児として活躍した。

*平凡社の「平」の二つの点は末広がり「八」である。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。