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いしかわ さんしろう

石川三四郎

いしかわ さんしろう

1876.5.23(明治9)〜 1956.11.28(昭和31)

明治・大正・昭和期の社会運動家、無政府主義者

埋葬場所: 25区 1種 85側

 埼玉県児玉郡山王堂村(本庄市)出身。号を旭山。戸長であった五十嵐九十郎、後妻のシゲの三男として生まれる。生家は江戸時代から利根川沿岸で船着き問屋を営んだ名主。父が三四郎の微兵忌避のため、1880.6.22(M13)同村の石川半三郎の養子とし石川家を継ぐことになった。兄に埼玉硫酸事件に関与した五十嵐宰三郎(異母兄・禁固1年)、実兄の五十嵐犬三(初審は禁固1年を宣告されたが、再審で無罪)がいる。
 本庄小学校高等科卒業後、1890 実業家・政治家の佐藤虎次郎の勧めで上京し、佐藤や政治家仲間の橋本義三らが住む家の玄関番として住み込む。ここで社会主義や無政府主義などを知る。1年ほど玄関番をつとめた後、福田友作の書生となり寄宿するが福田の同人社退社に伴い帰郷した。この年に兄たちが埼玉硫酸事件(1891)に関与した事件が起きている。
 福田友作が婦人解放運動家の福田英子と再婚し、福田家新居に寄宿することになり再び上京したが、福田家の家計困窮により帰郷。群馬県村田村の小学校で代用教員として働く。赤痢になり一時帰郷し療養し回復したが、実父の九十郎は赤痢を罹患し亡くす。再び代用教員を務め、二年後、1897 中等教員の検定試験を受験したが失敗。まもなく三度目の上京し福田家に寄宿。親戚たちの学費援助を受け、1898 東京法学院(中央大学)に入学。在学中、海老名弾正(12-1-7-18)の本郷教会に通う(洗礼は1901)。1901 東京法学院卒業。堺利彦、花井卓蔵の紹介で萬朝報社に入社。
 1903.11 幸徳秋水らが日露戦争の非戦論を主張して萬朝報社を退き平民社を結成、週刊「平民新聞」を創刊するとそれに参加。『直言』の刊行に従事。'04.11.6 「平民新聞」に「小学校教師に告ぐ」と題して国家主義教育を批判し発禁処分を受け、その後も度々発売禁止となり、石川、幸徳、堺らは罰金刑や投獄を繰り返した。'05.1 「平民新聞」1周年記念として「共産党宣言」を翻訳掲載したことで幸徳が逮捕され、印刷機を没収され廃刊に追い込まれた。同.5.1 平民社楼上で日本最初のメーデー集会として茶話会を開くなど頑張ったが、平民社は解散。解散後、キリスト教社会主義の立場から安部磯雄・木下尚江らと「新紀元」を創刊。この時期、田中正造と行動を共にし、足尾銅山鉱毒事件に取り組む。
 '06.6 渡米から帰国した幸徳が労働者の直接行動を訴えると、石川は「新紀元」を廃刊し、幸徳と合流。'07.1 西村光二郎(18-1-19)らの「光」が合同して、堺・幸徳・西川らと「日刊・平民新聞」を発刊。『日本社会主義史』を執筆。しかし、3か月で廃刊に追い込まれた。また日本社会党の分裂を阻止するため、第2回大会で加入し、堺と並んで幹事に選出される。
 翌年「日刊・平民新聞」に掲載した記事が朝憲紊乱罪として起訴され入獄。'10.5 明治天皇を暗殺する計画が明るみに出て、社会主義者を逮捕・起訴した大逆事件(幸徳事件)の際は、事件前に雑誌「世界婦人」に書いた記事により禁固・罰金刑を受け留置されており難を逃れる。保釈後再び拘束され家宅捜査を受けたが嫌疑なしとして釈放された。'11.1.18 大審院で大逆事件に関与した幸徳ら24人は死刑判決を受ける。石川は処刑三日前に東京監獄で幸徳らと面会した。
 大逆事件で大きな衝撃を受け、『哲人カアペンター』を翻訳出版した後、'13(T2)日本を脱出。ヨーロッパを放浪し、第一次世界大戦後、'20 帰国。この前後から無政府主義に傾く。帰国後は訳書『エリゼ・ルクリュ』、『社会運動史』を執筆。また乗船した船上で知り合った侯爵の徳川義親との縁で義親の娘のフランス語の家庭教師として雇用された。自宅でもフランス語教室を開いた。
 '23.9.1 関東大震災に遭遇し、直後、危険人物と疑われ田端警察署に拘束された。同署を訪れた徳川義親により釈放され、釈放された時は衰弱しており、このまま東京にいると危険だと、北海道八雲町の徳川農場に移され静養。'24 回復したため帰京。清浦内閣の貴族院改革案の起草を徳川義親が担当した際は協力している。大杉栄死後の日本のアナキズムの中心人物の一人となる。
 '27(S2)共学社を設立。'29 雑誌「ディナミック」を創刊。無政府主義を説く。自由連合派の労働運動、黒色青年連盟に係わり、また中西伊之助・下中弥三郎(24-1-10-6)らと農民自治会を創設。 デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なる。太平洋戦争中は、独自の歴史観から東洋史研究にも取り組んだ。
 '34.2 新津志壽(石川永子:同墓)が石川の家事を手伝うようになり養女となる、戦時中は山梨の新津家に疎開した。'46 終戦後、「無政府主義宣言」を書き、日本アナキスト連盟が結成され顧問に選出される。昭和天皇への共鳴と支持を主張した。
 「政府=支配者」を無くし相互扶助を基調する「アナキスト」として知られ、生涯を通して社会主義思想による平和をうたい続けた。享年80歳。没後、養女の志壽が口述筆記していたものを編集し『自叙伝』が刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<キリスト教人名辞典>
<大原緑峯『石川三四郎−魂の導師』など>


【石川三四郎と女性たち
 − 福田英子(愛人)・望月百合子(実娘?)・新津志壽(養女)−】

 1890(M23)石川三四郎は政治家の佐藤虎次郎の勧めで上京し玄関番として住み込む。1年ほど玄関番をつとめたあと、福田友作(1865-1900)の書生となり福田家に寄宿。1892 友作が英子と結婚するために前妻を離縁したことから実家の不興を買い、また福田の同人社退社に伴い石川は帰郷した。友作が婦人解放運動家の英子と再婚。
 福田英子(1865-1927.5.2)の旧姓は影山で、備前岡山の下級藩士の娘。「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された婦人解放運動家。石川は福田家新居に寄宿するため再び上京したが、福田家の家計困窮により帰郷。友作と英子の結婚生活は困窮を極め、英子に手を上げるなど夫婦喧嘩が絶えなかった。しかし、英子は自伝で幸せな結婚生活だったと述懐している。郷里に帰った石川は代用教員を務めていたが、上京をし福田家に寄宿。親戚たちの学費援助を受け、1898 東京法学院(中央大学)に入学した。
 在学中、海老名弾正の本郷教会に通う。本郷教会で知り合った宮中の女官に仕えていたサチに興味を持ち誘惑する。1900.4.23 福田友作は脳梅毒で36歳で死去。夫の没後、未亡人となった英子は夫の書生で親しい友人であった石川と同居し活動を共にした。石川は英子とは恋仲でありながらも、サチは石川の子を身ごもり婚外子の娘が誕生した。この誕生した娘がのちのアナーキストの望月百合子である(とされる)。七か月の未熟児で生まれてすぐ、石川の兄の友人だった望月家に引き取られた。引き取った望月好太郎の次女は亡くなったばかりであり、戸籍もそのままになっていたためそこに入れられる。よって、望月百合子は戸籍上では「明治三十三年九月五日、望月好太郎の次女として山梨県甲府に生れる」とされているが、実際は東京生まれで石川三四郎とサチの長女、生まれた月日ももう少し後だったのではないかと、望月百合子本人が回想している。また百合子は幼少の頃より、望月家では両親が異なる旨を伝えられて育つ。加えて養父は米相場師で上京すると福田英子の家を宿にしており、百合子も連れられて同居していた石川三四郎とも会っていた。
 なお、別の説としては、1899 石川三四郎は実業家の石川家の養子となり、石川家の長女と婚約する。同家の寄留中の19歳の娘と情交し妊娠させ、1900夏に幸子が生まれる。これにより実業家の石川家の養子縁組は解消となる。(*前者は望月百合子本人説、後者は石川三四郎研究書物の説)
 1901 石川三四郎は東京法学院を卒業。下宿先の娘の清水澄子(本名は茂子)を愛すが、弁護士試験など次々と受験に失敗し結婚を諦める。その後、石川は、1907.3.15「新紀元」の後継誌として福田英子と始めた雑誌「世界婦人」を出すなど、石川と英子との関係は良好であった。
 福田英子の子どもは大井憲太郎との間の男児の竜麿、福田友作との間の哲郎、侠太、千秋の三兄弟がいた。石川三四郎は末っ子の千秋と養子縁組。よって千秋は石川姓を名乗った。福田英子は心臓病を患い療養を続けていたが、'27.5.2(S2)南品川の自宅で死去した。墓は染井霊園。
 望月百合子は(1900.9.5-2001.6.9)は生まれてすぐ山梨の望月家に引き取られ育つ。大正時代に断髪洋装の読売新聞の記者として活躍。農商務省留学生試験を受け合格しハチミツの研究をするためフランスに留学。その際、石川三四郎も地質学者の図書を購入するためと渡仏することになり、一緒に日本を離れている。石川は現地で友人たちに百合子を紹介してまわったそうだ。石川が先に帰国し、'25 百合子も帰国。帰国後は東京の滝野川(北区)で二人は同居。のちに杉並、多摩郡千歳村(世田谷区)と転々とした。
 '27(S2)福田英子没により移り住んだ千歳村では、二反歩の畑を耕し、果樹園を作り、鶏を飼う。百合子は石川の影響を受け、アナーキストの評論家として女性解放運動に携わった。'28 百合子は作家の長谷川時雨らと雑誌「女人芸術」やアナーキズム系婦人誌「婦人戦線」を創刊。また石川が創刊した雑誌「ディナミック」の編集を手伝う。同じく編集を務めていた古川時雄と結婚した。
 百合子は四谷で古川と同居するため石川のもとを離れる。百合子は新宿で仏英塾や古本屋を始めるが、脊椎カリエスにかかり五年近い闘病生活を送る。'34.2 新津志壽(石川永子)がひとり身になった石川三四郎の家事を手伝うようになり養女となる。'38百合子は、夫の古川と共に満州に渡る。満州に渡った理由は書くことも話すことも自由にならない日本からの脱出と、石川三四郎との思想上、生活上の決別であったと回想している。百合子の戦後は、'48 満州から引き揚げ。評論や翻訳活動を行い歌人としても活動した。1996 鰍沢町名誉町民。1999 山梨県南巨摩郡鰍沢町(富士川町)に「望月百合子記念館」が開館した。享年100歳。


※望月百合子が80歳の時に取材され語った石川三四郎の実娘説は本人談として上記まとめたが、志壽が石川三四郎本人から口述筆記した自叙伝に望月百合子が実娘であったことには触れられていない。また石川三四郎を取り上げている他書物にも、婚外子の娘がいたことに触れているが、その娘が望月百合子であったと書かれている書物はひとつもなかった。よって事実は不明である旨、ご承知おき願いたい。

<「望月百合子ノート」尾形明子>
<「石川三四郎の教育思想」−「人格の独立」に着目して−
貞清裕介 など多数の書物を参考>


裏面

*お墓は大きな岩に「不盡」。裏面に「石川三四郎 志壽 之墓」の刻を見ることができる。志壽(石川永子)は石川三四郎の養女。

*埼玉県本庄市(旧 児玉郡山王堂村)の図書館本館2階には石川三四郎記念室が設けられている。また若泉公園には「石川三四郎顕彰碑」が建つ。


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