筑後柳河(福岡県)出身。祖父は海老名弾右衛門。筑後国柳川藩の藩士で六組給人(石高100石、小野勘解由組)の海老名平馬助の長男として生まれる。幼名は喜三郎。
熊本洋学校に学び、1876(M9)洋学校の生徒35名(熊本バンド)が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約した。
ここに署名をした人物は、横井時雄、浮田和民(4-1-25)、金森通倫(15-1-13)、徳富蘇峰(6-1-8-13)らがいた。L・L・ジェーンズから洗礼を受ける。同年秋、同志社神学校に移り新島襄の薫陶を受ける。
1877新島襄の勧めで上州安中に伝道。1879同志社を卒業し、安中教会の設立に伴い牧師となる。1882(M15)横井小楠の長女の みや子(同墓・墓石には美屋)と結婚。
1884前橋に転居し、前橋教会を創立。1886東京伝道を志し、本郷湯島で伝道を開始し、東大生をはじめ多くの青年に影響を与えた。その中に吉野作造(8-1-13-18)がいた。同年、本郷教会を創立。この時期に郷里の熊本に熊本英学校、熊本女学校を創立した。
1890日本基督教伝道会社の社長に就任。1893〜1897神戸教会の牧師を務める。「キリスト同志会」をつくり本郷教会牧師の再建を図る。1900 雑誌「新人」を創刊。論陣を張り、その門下から吉野作造や鈴木文治らが出た。1920〜1928(T9-S3)同志社大学総長に就任した。
海老名の神学は進歩的・自由神学的〔新神学〕の強い影響を受け、信仰理解をめぐって、正統主義信仰の植村正久(1-1-1-8)と福音主義論争を戦わせ(植村・海老名キリスト論論争)、教界内外の注目を集めた。海老名の思想の神道的・武士道的・国粋主義的性格は、日露戦争に対する積極的肯定にまでつながっている。
故に、海老名の思想は、神道的キリスト教と呼ばれた。これを海老名の教え子である渡瀬常吉(23-2-7)が、朝鮮植民地伝道で実践された。
<コンサイス日本人名事典> <朝日日本歴史人物事典> <日本キリスト教総覧など>
*墓所正面「海老名弾正 / 妻 美屋 之墓」。左側に「海老名みち(道子)墓誌碑」と墓誌が並ぶ。海老名みちは弾正の長女で音楽(ピアノ)教育家。墓誌には弾正の長男で「北米朝日新聞」を創刊した出版人・社長の海老名一雄〔春舟郎〕(S31没)、海老名ヒサ(S53没)、海老名實枝子(S15没)、笹木グレース妙(1999没)が刻む。弾正墓石の右側には洋型「海老名家」(H14 海老名季正建之)が建ち、裏面が墓誌となっており、海老名雄二(H5没・「千葉今昔物語 新房総歳事記」著者)、海老名季和(H9没)、海老名敏子(H19没)が刻む。
【多磨霊園に眠る熊本バンド出身者】
1876(M9)熊本洋学校で指導者リロイ・ランシング・ジェーンズの薫陶を受けた生徒35名が、熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約。熊本バンドが結成された。この35名の中で多磨霊園に眠る人物は、海老名弾正(12-1-7-18)、徳富蘇峰(6-1-8-13)、浮田和民(4-1-25)、金森通倫(15-1-13)。儒教の道を志していた小崎弘道(8-1-7-1)は結成に参加をしなかったが、花岡山事件を転機に、海老名弾正らの勧めで同年にジェーンズから洗礼を受け熊本バンドの一員となった。
【多磨霊園に眠る海老名弾正を師とする者】
石川三四郎 | 社会主義者 | 多磨霊園(25-1-85) |
石川武美 | 出版人 | 多磨霊園(9-1-2) |
小田川彦一 | 幕臣・牧師 | 多磨霊園(2-1-7) |
佐藤繁彦 | 神学者 | 多磨霊園(11-1-19) |
田崎健作 | 弓町教会牧師 | 多磨霊園(12-1-26) |
中澤眞二 | 実業家 | 多磨霊園(5-1-8) |
長田時行 | 牧師 | 多磨霊園(5-1-6) |
中村正路 | 牧師 | 多磨霊園(22-2-36) |
安井てつ | 女子教育者 | 多磨霊園(15-1-10-7) |
吉野作造 | 政治思想家 | 多磨霊園(8-1-13-18) |
渡瀬常吉 | 朝鮮布教伝道者 | 多磨霊園(23-12-7) |
*多磨霊園には牧師の田崎健作(12-1-26)も眠る「弓町教会会員墓地」があり、「海老名弾正彰徳碑」(上写真)が建つ。書は同じ熊本バンド出身の徳富蘇峰である。
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