岡山出身。岡山藩士の長田三右衛門の子として生まれる。岡山藩立学校を経て、1875(M8)軍人を志し上京。海軍兵学校の入学が叶わず、築地大学校に入学するも廃校となり、J.H.バラが主宰する横浜バラー学校に入学し、キリスト教に開眼した。1877父の事業失敗により岡山に戻り、中川横太郎の助手を務める。
1888新島襄と出会い、同志社速成邦語神学科に入学するも2カ月で退学し、新島の紹介で安中教会の湯浅治郎(7-1-15)を紹介され師事。翌年、安中教会を湯浅と創立した海老名弾正(12-1-7-18)より洗礼を受ける。
同年、上京し、津田仙の勧めにより東京英学校(青山学院)創立時の教員となる。1883東京第一教会(霊南坂教会)の仮牧師となり、神戸YMCA会長を兼任した。1884同志社に1年間勉学。1885杉田真(シン)と結婚した。
1886神戸多聞教会の伝道師に着任、岡山孤児院の支援や神戸出獄人保護会の支援も行う。1888後に歯磨や石鹸の製造販売で事業を成した株式会社ライオンの創始者となる小林富次郎(1852-1910)が長田の演説会を聞き感銘。
ただちに長田から洗礼を受けた。当時の小林は36歳で、その後、マッチ製造の事業をはじめるために全財産をはたいて宮城県石巻に大規模な工場を建て、フランス製の機械を導入し、北海道でマッチの軸木になる木材を購入した。
ところが洪水によって一年分の原木が流され、工場も水浸し、再起のために日夜奔走するもうまく行かず、進退窮まった彼はついに自殺を決意。ある晩、北上川の橋の上たたずみ身を投げようとしたその瞬間、小林の心に稲妻のように御言葉がひらめいた。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです(ヘブライ人への手紙12章11節)」。
これは長田が小林に書いて贈った御言葉であった。これにより小林は自殺を思い止まり、再び事業と取り組む勇気を奮い起こし、1893東京の神田に石鹸やマッチの原料取次ぎの「小林富次郎商店」を開設。
それがライオンへと発展したのである。なお、後に小林は岡山孤児院ライオン館を設立し慈善活動を行っている。
1901日本キリスト教伝道会社社長に就任。1902兼任していた神戸多聞教会を辞す。'03大阪天満教会に第6代牧師として着任、梅花女学院名誉校長を兼任した。'08病の為、妻の真が44歳の若さで天に召される。
'13大阪天満教会を退職し、'14(T2)新潟教会に第11代牧師として着任した。楠田トクケサと再婚。聖友女学校や聖心幼稚園を創立した。'22新潟教会を辞し、病気療養のため東京大久保に転居。
'24時行を慕うものが集まり紫苑会発足。'25東京烏山に自宅兼集会所、紫苑荘を設立、以後この烏山の地で生涯布教活動を行う。'26紫苑幼稚園および日曜学校を開校。
'30(S5)紫苑会堂竣工、日本基督協会の重鎮として晩年を過ごした。享年79歳。葬儀は豪雨にも関わらず500名を超す参列者があったという。