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ゆあさ じろう

湯浅治郎

ゆあさ じろう

1850.10.21(嘉永3)〜 1932.6.7(昭和7)

明治・大正・昭和期期のキリスト教指導者、
政治家、社会運動家

埋葬場所: 7区 1種 15側

 上野国碓氷郡安中宿(群馬県安中市)出身。味噌醤泊を醸造販売する大きな商家(有国屋)の湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。雅号は雲外。詩人であり聖書学者の湯浅半月(吉郎)の兄。治郎吉の代から名字帯刀をゆるされ、商人ではあったが武士並みの扱いを受ける。1864(元治1)有田屋3代目当主となる。
 前妻の茂登子の父は安中藩の御用達(御用商人)で地域に知られた儒者、詩人でもあった真下亀吉郎。このため、治郎は当時、県下に知られた儒学者であり、家業を継いだ実業家であった。福澤諭吉の著書を読み教育の重要性を認識し、1872(M5)安中に私立図書館「便覧舎」を自費で設置し、蔵書三千冊を町民や青年たちに無料閲覧させ知識啓発につとめた。これは図書館事業の先駆者とされている。
 同郷であり同志社の創立者の新島裏がアメリカから帰国した(1874)際に最初の伝道の地が上州安中であり、そのため新島の影響で儒学者から転じ聖書の勉強会を始める。1878.3.30 新島より洗礼を受けて入信。同じ日に新島からは治郎を含めて男子16名、女子14名の30名が洗礼を受け「安中教会」を創立。海老名弾正(12-1-7-18)が仮牧師として着任し、治郎は執事になった。安中教会は日本人の手で創立された日本で最初の教会である。よって群馬県最初の伝道拠点となり、実業家の治郎の献金が重要な支柱になる。
 安中教会会員30名中25名は旧士族であり、廃藩置県により生活の基盤を失っていた。治郎は教会員の生活を助けるために養蚕所の建設をした。田畑を持っていた彼らに桑を寄付し、教会員が共同で養蚕に従事させた。各自の労働量のいかんを問わず、その収穫は等分に分配。キリスト者としての生活共同体の形成に関心を持っていた治郎は、当時の日本では珍しかった共同事業の考えを取り入れ自給教会を目指した。後に、これら新しい取り組みや経済改革はロシアのボリシェヴィキらを研究し影響を受けたことであると、治郎の告別式における小崎弘道(8-1-7-1)の言葉や、浮田和民(4-1-25)による著書などで語られている。また、1880 小崎弘道らと東京基督教青年会(YMCA)を創立し財政確立に尽力した。
 1881(M14)群馬県会議長に選ばれ、自治体の民主化への働きも積極的に行う。当時は県知事や地方官を中央政府が中央の意向で実情をわからない者を勝手に選び、地方に送り込む官選である状況に抗して、地方自治制の民主化を要求として、地方官民選の権利を確保しようと試みた。県知事や書記官らを県民による公選にするかわりに、その俸給はすべて地方税でまかなってよいとする建議を中央政府に対して提出したが、実現できなかった。
 一方で、妻の茂登子の兄の真下珂十郎と主唱者となり他県にさきがけて廃娼運動を推進。1893.12.31 ついに県下の貸座敷(売春宿)のすべての廃止を実現、群馬県は日本最初の廃娼県となった。県議会議長時代には、日本鉄道会社理事(1881)も兼務し、群馬への鉄道建設に関わり、東京から内陸に向かう初めての鉄道施設に尽力した。その他、1883 碓氷銀行を設立したり、1886国光社(器械製糸事業)を設立するなど地元の発展に尽くした。
 1883 キリスト教関係の図書出版のために「警醒社」(けいせいしゃ)という出版社を創立。植村正久(1-1-1-8)『真理一斑』、小崎弘道『正教新論』は当時の青年や知識層に大きなインパクトを与えた。1887 徳富蘇峰(6-1-8-13)が「平民主義J(デモクラシー)の思想普及のために民友社を設立し、『国民之友』を創刊する際の資金援助をした。また内村鑑三(8-1-16-29)らの出版事業を助けた。キリスト教定期刊行物『六合雑誌』も刊行している。
 1890.7.1 第1回衆議院議員総選挙に群馬県5区より立憲自由党で立候補し初当選。1892 第2回衆議院議員総選挙でも連続当選(2期)した。財務委員会第一分科委員長などをつとめた。
 1890 国政の政治家として活動を始めた時期、急逝した新島襄の同志社の経営を心配して、1892 家族と共に一時京都に居を移した。以降、同志社の理事として財務理事を20数年間無給で経営にあった。1894 国会議員を辞して国政から離れ、家業や同志社の経営援助の他、日本組合基督教会などの理事として主に財政面を支える。'13(T2)朝鮮総督府の機密費による朝鮮伝道に対しては柏木義円とともに反対する立場をとっている。
 プライベートでは、1894(M27)先妻の茂登子が6人目(内2人は早逝)を産んだ後に病没。湯浅家は治郎の母の茂世が切り盛りをすることになった。両親も治郎と共に新島より洗礼を受けている。1895 先妻の子を4人育てていた36歳の治郎に縁談の話がある。相手は徳富一敬と久子の4女で、徳富蘇峰と蘆花の姉(徳富家:6-1-8-13)の初子(同墓)、当時26歳(初婚)。同.10.9 結婚。結婚した治郎と初子は当初、同志社の兼ね合いで京都に住む治郎と、東京に住み先妻の子の助力する初子と別々に住んでいたが、先妻の子どもたちの方向性が整うと初子は京都に移り住み、8子出産した。1910より家族で東京に戻る。治郎は家族との居と警醒社の拠点を東京とし、家業の有田屋は郷里の安中、同志社の京都と行き来をしながら過ごすこととなった。
 晩年は家業の有田屋を3男の湯浅三郎に相続し、同志社は5男の湯浅八郎が昆虫学者として活動し後に総長となる。6男の湯浅十郎はブラジル・ホーリネス教団牧師、7男の湯浅與三(同墓)は日本組合基督教会牧師として父の基督教伝道と指導者の道を継承した。日本におけるキリスト教伝道者たちを陰で支えた第一人者である。享年81歳。

<コンサイス日本人名事典>
<20世紀日本人名事典>
<湯浅八郎と二十世紀など>


【治郎と湯浅家】
 1894(M27)湯浅治郎は先妻の茂登子が6人目(内2人は早逝)を産んだ後に病没。湯浅家は治郎の母の茂世が切り盛りをすることになった。両親も治郎と共に新島より洗礼を受けている。1895 先妻の子を4人育てていた36歳の治郎に縁談の話がある。相手は徳富一敬と久子の4女で、徳富蘇峰の姉(徳富家:6-1-8-13)、安中教会牧師を務めていた海老名弾正の妻の美屋と従姉妹の初子。縁談が成立し、同.10.9 結婚。初子は26歳(初婚)。その後、初子との子ども8名(内1人は早逝)を儲け、治郎と先妻との子ども6名(内2人は早逝)、併せて14名中11人の子どもを育て上げた。
 先妻の茂登子の6子は、長男の湯浅一郎は洋画家。長女の にい は同志社大学総長を務めた大工原銀太郎に嫁ぐ。次男の湯浅三郎は安中の実家の醸造業「有田屋」4代目として家督を継ぎ、後に町長や県会議員を務めた。三男の四郎と四男の五郎は早逝。次女の ろく は海軍少将の福田一郎に嫁いだ。後妻の初子との8子は、三女 しち は実業家の鈴木晋に嫁ぐ。五男の湯浅八郎は昆虫学者で同志社大学総長・国際基督教大学(ICU)初代学長。四女の くめ は教育家の浅原丈平に嫁ぐ。六男の湯浅十郎はブラジル・ホーリネス教団牧師。五女の和代(かずよ)は教育家の平坂恭介に嫁ぐ。六女の直代(なほよ:同墓)は早逝。七男の湯浅與三(餘三:よぞう:同墓)は日本組合基督教会牧師。八男の湯浅由郎(餘四郎:よしろう:同墓)は同志社大学で人物学者となった。
 なお、治郎の孫で三郎の長男の湯浅正次(1911-1999)が「有田屋」5代目を継ぎ、'47新島学園を創設、'71安中市長を5期20年に渡り務めた。政次の長男の太郎(1936-2019)は「有田屋」6代目・学校法人新島学園理事長を務めた。現在は7代目の湯浅康毅。


墓地

*墓所内には5基建つ。正面和型「湯浅治郎墓」。裏面「嘉永三年十月廿一日誕生 昭和七年六月七日永眠」と刻む。墓所右手側には「湯浅初子墓」、その右側に「湯浅與三 妻みのり 之墓」(治郎と初子の七男與三の一族の墓)が建ち、墓石の裏面が墓誌となっている。與三、みのり(S49.4.23歿)、信夫(H24.8.24歿)、美保(H17.2.26歿)の順番で刻み、右面「昭和五十三年七月吉日 湯浅信夫 建之」とある。墓所左手側には球体に卍を刻み、台座に「湯浅直代」と刻む(治郎と初子の早逝した六女の墓)。その左側に「湯浅由郎之墓」が建ち、裏面「湯浅由郎 明治三十六年十一月二十九日誕生 昭和四十七年十月廿七日永眠 行年六十八才」と刻む(治郎と初子の八男の墓)。

※「湯浅」は旧字体「湯淺」が正しいが「湯浅」で統一した。

湯浅與三 湯浅由郎 湯浅直代


湯浅一郎 ゆあさ いちろう
1869.12.18(明治1)〜1931.2.23(昭和6)
青山霊園1イ12-5
明治・大正・昭和期の洋画家
 上野(群馬県)出身。基督教伝道師の湯浅治郎・茂登子(共に同墓)の長男。母が幼い時に亡くなり、後妻となった湯浅初子に育てられる。理学博士で昆虫学者の湯浅八郎は異母弟。初子の弟の徳富蘇峰(6-1-8-13)は叔父。東京美術学校(東京芸大)卒業。 山本芳翠、のち黒田清輝らに師事。白馬会会員。1905(M38)渡欧し、スペインでベラスケスの作品の模写に専念。帰国後、'14(T3)二科会の創立に参画した。作品に『漁夫晩帰』など。享年64歳。

<講談社日本人名大辞典など>


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