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ゆあさ じろう

湯浅治郎

ゆあさ じろう

1850.10.21(嘉永3)〜 1932.6.7(昭和7)

明治・大正期のキリスト教社会運動家

埋葬場所: 7区 1種 15側

 詩人であり聖書学者の湯浅半月(吉郎)の兄。1878(M11)新島襄より洗礼を受け、海老名弾正(12-1-7-18)らと安中(あんなか)教会を創立。 93群馬県会議長になり、他県にさきがけて廃娼運動を推進。また、小崎弘道(8-1-7-1)らと東京基督教青年会(YMCA)の創立や、同志社・組合教会の財政確立に尽力。 1913(T2)朝鮮総督府の機密費による朝鮮伝道に柏木義円とともに反対した。

<コンサイス日本人名事典>


墓地

*1884(M17)死別した先妻の茂登子との間に6人の子、後妻で社会事業家としても活躍した初子との間に8人の子がおり、早逝した3名を除く11人の子を育てた初子は素晴らしい。 なお、先妻の子である長男の湯浅一郎は洋画家、長女にいは同志社大学総長を務めた大工原銀太郎の夫人、次男の三郎は安中の実家を継ぐ、三男の四郎と四男の五郎は早逝、次女ろくは海軍少将福田一郎夫人となった。 後妻初子との子は、三女しちは実業家鈴木晋夫人、五男の湯浅八郎は同志社大学総長・ICU大学長・理学博士、四女くめは教育家浅原丈平夫人、六男の十郎は宗教家、五女かずよは教育家平坂恭介夫人、六女なほよ早逝、七男の餘三は宗教家、八男の餘四郎は学者となった。 それにしても子供たちの名前は一から始まり十までいって、娘二人を挟んで、餘(あまる)三人目、餘四人目と付けるところが、何とも言えない。


湯浅一郎 ゆあさ いちろう
1869.12.18(明治1)〜1931.2.23(昭和6)
青山霊園1イ12-5
明治・大正・昭和期の洋画家
 上野(群馬県)出身。基督教伝道師の湯浅治郎・茂登子(共に同墓)の長男。母が幼い時に亡くなり、後妻となった湯浅初子に育てられる。理学博士で昆虫学者の湯浅八郎は異母弟。初子の弟の徳富蘇峰(6-1-8-13)は叔父。東京美術学校(東京芸大)卒業。 山本芳翠、のち黒田清輝らに師事。白馬会会員。1905(M38)渡欧し、スペインでベラスケスの作品の模写に専念。帰国後、'14(T3)二科会の創立に参画した。作品に『漁夫晩帰』など。享年64歳。

<講談社日本人名大辞典など>


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