京都出身。湯浅治郎・初子(共に同墓)の7男・第13子(14名中・下から2番目)として生まれる。湯浅家の子どもたちは先妻の子どもより番号順に命名されており、13番目の子であったことから「餘三」と名付けられたが、後に「與三」に改名。言論界の重鎮の徳富蘇峰(6-1-8-13)や小説家の徳富蘆花は叔父。教育者の竹崎順子は大伯母、横井小楠に嫁いだ横井つせ子や教育者の矢島楫子(3-1-1-20)は大叔母にあたる。 女性解放運動家の久布白落実や考古学者の徳富武雄(6-1-8-13)は従姉弟。
1910(M43)8歳の時、湯浅一家は東京に拠点を移す。東京に移ったこの頃より、両親に連れられ小崎弘道(8-1-7-1)が創立した日本組合基督教会「霊南坂教会」に通うようになる。'19.11.16(T8)小崎弘道より洗礼を受ける。
青山学院高等部を卒業後、渡米しオーバリン大学神学部に留学。'31(S6)帰国。帰国後は日本組合基督教会牧師として信州佐久組合教会に赴任。父が創立に携わった安中教会に日本組合基督教会婦人伝道会の女性伝道師として着任していた舟竹みのり(同墓)と急速に接近し結婚の運びとなり、同.11.7 結婚。結婚後ほどなくして沼田教会の牧師として赴任。'40按手礼(あんしゅれい:牧師や司祭・主教など聖職に就く者を按手によって聖別し任命する儀式)。戦後は、'48 妻のみのりと共に初台教会を創立させ牧師に着任した。
牧師の傍ら、基督教雑誌社や合資会社三石製作所顧問を務めた。'41 日本組合基督教会歴史編修委員会の命により、10カ月かけて『基督にある自由を求めて−日本組合基督教会史』を編纂。'58編纂したこの著書を自身の主著としてタイプ印刷で刊行している。
戦時中は「日本の為に憂ふ」という論説を展開。戦時下のクリスチャンの立場として「われら日本のクリスチャンは非国民と罵られても己のが主義に忠実なるこそ真の愛国である」と主張。また「愛国心如何に大切なればとて国際愛の精神が失はれてよいと云ふ訳ではない」、「真に国を愛する事と真に世界を愛する事は決して矛盾しないことが力説高調せられなければならぬ」とクリスチャンである日本人としての時代批判や葛藤が描かれている。『大東亜戦争の宗教的構想』を刊行。大東亜戦争の義戦であることを認め、我国の基督教界がこれに協力すべきことを述べている。東條英機首相に対して「もし米兵を打倒したいと思うのなら世界のユダヤ人を味方にせよ」等の手紙を出したことなどにも触れている。
戦後、軍国主義から民主主義へと日本が変革するに至り、非戦の思想が蘇る。教育は国家百年の計どころか二百年の後を期するとした新島襄の言葉や、非国民・売国奴の声を恐れず百年後を洞見したエレミヤを求めた柏木義円の姿が思い出されると、義円の思想の継承のひとつの形として、60点以上に及ぶ義円の書簡を公開した。
その他の著書に、戦前は『新島襄伝』(1936)、『小崎全集』(1941)、『伸びゆく教会』(1941)などがある。1940 ジー・デー・オールズ著『正しい性教育』の訳書を刊行したが発禁処分を受けている。戦後は、'58『基督にある自由を求めて』、'63訳書『キリスト教神学』(W・M・ホートン 著)、'67『小崎弘道先生の生涯』、'68 日本伝道についての論集『日本の教化』などを刊行している。なお湯浅與三が所蔵していた膨大な日本組合教会資料を中心とした総数 1066 点は、同志社大学の人文研によって購入され、人文研のライブラリーに入っている。享年75歳。
<日本キリスト教歴史大辞典> <湯浅与三著『新島襄伝』著者略歴> <「非戦の思想とその継承」片野真佐子>
【湯浅家】
湯浅治郎の先妻の茂登子との6子は、長男の湯浅一郎は洋画家。長女の にい は同志社大学総長を務めた大工原銀太郎に嫁ぐ。次男の湯浅三郎は安中の実家の醸造業「有田屋」4代目として家督を継ぎ、後に町長や県会議員を務めた。三男の四郎と四男の五郎は早逝。次女の ろく は海軍少将の福田一郎に嫁いだ。後妻の初子との8子は、三女 しち は実業家の鈴木晋に嫁ぐ。五男の湯浅八郎は昆虫学者で同志社大学総長・国際基督教大学(ICU)初代学長。四女の くめ は教育家の浅原丈平に嫁ぐ。六男の湯浅十郎はブラジル・ホーリネス教団牧師。五女の和代(かずよ)は教育家の平坂恭介に嫁ぐ。六女の直代(なほよ:同墓)は早逝。七男が湯浅與三で日本組合基督教会牧師。八男の湯浅由郎(餘四郎:よしろう:同墓)は同志社大学で人物学者となった。
なお、治郎の孫・與三の甥・三郎の長男の湯浅正次(1911-1999)が「有田屋」5代目を継ぎ、'47新島学園を創設、'71安中市長を5期20年に渡り務めた。政次の長男の太郎(1936-2019)は「有田屋」6代目・学校法人新島学園理事長を務めた。現在は7代目の湯浅康毅。
*墓所内には5基建つ。正面和型「湯浅治郎墓」。裏面「嘉永三年十月廿一日誕生 昭和七年六月七日永眠」と刻む。墓所右手側には「湯浅初子墓」、その右側に「湯浅與三 妻みのり 之墓」(治郎と初子の七男與三の一族の墓)が建ち、墓石の裏面が墓誌となっている。與三、みのり(S49.4.23歿)、信夫(H24.8.24歿)、美保(H17.2.26歿)の順番で刻み、右面「昭和五十三年七月吉日 湯浅信夫 建之」とある。墓所左手側には球体に卍を刻み、台座に「湯浅直代」と刻む(治郎と初子の早逝した六女の墓)。その左側に「湯浅由郎之墓」が建ち、裏面「湯浅由郎 明治三十六年十一月二十九日誕生 昭和四十七年十月廿七日永眠 行年六十八才」と刻む(治郎と初子の八男の墓)。
【湯浅與三の妻:女性伝道師「舟竹みのり」(湯浅みのり)-1974.4.23】
富山県出身。旧姓は舟竹。日本組合基督教会婦人伝道会に所属し、舟竹みのり名義で女性伝道師として活動。鳥取組合教会を経て、1930.11 安中教会に派遣された。この時、安中教会牧師を務めていたのが柏木義円(1897-1935の間、安中教会牧師)。
赴任した時の歓迎会では「今我教会は再び母性的牧者を得るの喜びを得たり」との声があがり、安中教会は久々に華やいだ雰囲気に包まれ歓迎期待された。毎週家庭集会を持ち日曜学校で主任となり、青年会や婦人会などの集会にも駆り出された。'31米国留学から帰国し信州佐久組合教会に赴任していた湯浅與三と急速に接近し結婚の運びとなる。
安中教会に赴任してちょうど一年、'31.11.7 神奈川県茅ケ崎の小崎弘道別邸にて、柏木義円の司式により、小崎夫妻ら6名のみで簡素な結婚式が執り行われた。その夜は東京代々木の湯浅家で感謝会が開かれた。みのりの郷里からは舟竹正人が臨席した。
柏木義円は牧師夫人を欠いた安中教会の補い手とし「同労者」として舟竹みのりには期待するところが大きかっただけに胸中は複雑であったであろう。與三とみのりは結婚後すぐに沼田教会の牧師として赴任。戦後は、'48 初台教会を創立させ牧師に着任した。
※「湯浅」は旧字体「湯淺」が正しいが「湯浅」で統一した。また「與三」は「与三」とも書き同じである。
|