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ゆあさ はつこ

湯浅初子

ゆあさ はつこ

1860.1.23(安政7)〜 1935.3.13(昭和10)

明治・大正・昭和期の社会事業家

埋葬場所: 7区 1種 15側

 肥後国葦北郡水俣郷(熊本県水俣市)出身。漢学者・教育者の徳富一敬(淇水)・歌人の久子(共に6-1-8-13)の4女。旧姓は徳富。弟に言論界の重鎮の徳富蘇峰(6-1-8-13)、小説家の徳富蘆花。教育者の竹崎順子は伯母、横井小楠に嫁いだ横井つせ子や教育者の矢島楫子(3-1-1-20)は叔母にあたる。 海老名弾正の妻となった海老名美屋(共に12-1-7-18)は従姉妹。女性解放運動家の久布白落実は姪。考古学者の徳富武雄(6-1-8-13)は甥。
 徳富家は代々醸造酒業を営み、山林、 田畑も相当に持つ割合裕福な家柄。父の徳富一敬は横井小楠の第一号の弟子。初子は海老名美屋と共に熊本洋学校でゼンス夫人に学んだ。熊本洋学校はL・L・ジェーンズが来日(M4)した際に創立され、1876(M9)洋学校の生徒35名(熊本バンド)が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め人民の蒙を啓くことを誓約した。ここに署名をした人物は、横井時雄、海老名弾正、浮田和民(4-1-25)、金森通倫(15-1-13)、弟の徳富猪一郎(蘇峰)らがいた。女性のため奉教趣意書に署名はしていないが、明らかに初子は「熊本バンド」の一人であった。
 弟の徳富蘇峰の東京遊学や京都の同志社就学の際は、姉として生活全般の世話係として同行した。まず東京では初子の叔母の矢島揖子の家に同居し、蘇峰が福沢諭吉の慶応義塾に学んだ時には、女子部のない塾に初子も行き男子と共に学んだ。またアメリカのミッショナリーでフレーベル式の幼児教育法の指導を学び幼稚園教師の資格を取得。京都に移ってからは、同志社の女学校課程の不充分さに満足ができず、男子と一緒に学んだ。学び終わった蘇峰が帰郷し大江義塾を創めた時にも初子は一緒に帰って生活の世話をしている。
 初子の容姿は気品が備わっており、人目を引く印象的な女性であったことから求婚者も多かった。弟の蘇峰は世話になった姉の良縁を常に願っており、数多い求婚者の中から犬養毅(後の政友会総裁・首相で五・一五事件で暗殺される)を薦めた。初子が犬養毅とお見合いをした際に、初子は関口一番「あなたは一夫一婦の家庭観をどう考えますか?」とたずねた。犬養はその質問に驚きながらも「一夫一婦ですか。私は今はまだ若いが、将来、ひとかどの人間になったら女の一人や二人は相手にするでしょう。一夫一婦などということは、今から約束出来ない」と返答。それを聞いた初子は「それではこのお話はこれ切りです」と、二の句をつがせず、直ぐにいとまを告げて帰ってきたという逸話がある。
 1895.10.9(M28) 湯浅治郎と結婚。初婚の初子が、病没した先妻の子が 6人(内 2人は早逝)もいる治郎の後妻として結婚したのは、母の久子や姉妹たちが後妻として結婚しているため「後妻」に関してためらいがなかったこと。そして治郎の父の治郎吉は安中教会のメンバーであったが遊郭遊びがバレて2度も教会から除名をされている放蕩者であり、その父が反面教師となり治郎は禁欲的で真面目な人物であったこと。特に「一夫一婦論」について共感があったためであるとされる。加えて、治郎が取り組んでいた廃娼運動など婦人矯風会の仕事に携わり助けていたことで、治郎の人柄にも触れていた。新婚旅行は伊香保温泉であり、安中教会の牧師をつとめた海老名弾正の妻で、初子の従姉妹である海老名美屋も同伴者として同行している。
 結婚した治郎と初子は話し合いの結果、治郎は同志社の兼ね合いで京都に留まり、初子は東京に残ることとなった。初子は東京で新生活を始めるにあたり、治郎の先妻との子を順次迎えている。先ず、長女のにい(当時12才)を一緒に連れてきて、初子の叔母の矢島楫子が校長をつとめる櫻井女学校(女子学院)に入学させる。次いで9才の次男の三郎が小学校入学、16カ月の ろく が乳母に連れられ来る。長男の一郎は既に同志社中学に学んでおり、洋画家を目指すために後に美術学校へ進学した。先妻の子どもたちの方向性が整うと初子は京都に移り住み、8子出産(内1人は早逝)した。1910より家族で東京に戻る。先妻の子どもと合計し14名、早逝が3人のため、11人の子どもを育て上げた。享年75歳。

<女性人名事典>
<湯浅八郎と二十世紀など>


【湯浅家】
 湯浅治郎の先妻の茂登子との6子は、長男の湯浅一郎は洋画家。長女の にい は同志社大学総長を務めた大工原銀太郎に嫁ぐ。次男の湯浅三郎は安中の実家の醸造業「有田屋」4代目として家督を継ぎ、後に町長や県会議員を務めた。三男の四郎と四男の五郎は早逝。次女の ろく は海軍少将の福田一郎に嫁いだ。後妻の初子との8子は、三女 しち は実業家の鈴木晋に嫁ぐ。五男の湯浅八郎は昆虫学者で同志社大学総長(初子は八郎の同志社大学総長就任に反対していた)・国際基督教大学(ICU)初代学長。四女の くめ は教育家の浅原丈平に嫁ぐ。六男の湯浅十郎はブラジル・ホーリネス教団牧師。五女の和代(かずよ)は教育家の平坂恭介に嫁ぐ。六女の直代(なほよ:同墓)は早逝。七男の湯浅與三(餘三:よぞう:同墓)は日本組合基督教会牧師。八男の湯浅由郎(餘四郎:よしろう:同墓)は同志社大学で人物学者となった。
 なお、治郎の孫で三郎の長男の湯浅正次(1911-1999)が「有田屋」5代目を継ぎ、'47新島学園を創設、'71安中市長を5期20年に渡り務めた。政次の長男の太郎(1936-2019)は「有田屋」6代目・学校法人新島学園理事長を務めた。現在は7代目の湯浅康毅。


墓地

*墓所内には5基建つ。正面和型「湯浅治郎墓」。裏面「嘉永三年十月廿一日誕生 昭和七年六月七日永眠」と刻む。墓所右手側には「湯浅初子墓」、その右側に「湯浅與三 妻みのり 之墓」(治郎と初子の七男與三の一族の墓)が建ち、墓石の裏面が墓誌となっている。與三、みのり(S49.4.23歿)、信夫(H24.8.24歿)、美保(H17.2.26歿)の順番で刻み、右面「昭和五十三年七月吉日 湯浅信夫 建之」とある。墓所左手側には球体に卍を刻み、台座に「湯浅直代」と刻む(治郎と初子の早逝した六女の墓)。その左側に「湯浅由郎之墓」が建ち、裏面「湯浅由郎 明治三十六年十一月二十九日誕生 昭和四十七年十月廿七日永眠 行年六十八才」と刻む(治郎と初子の八男の墓)。

※「湯浅」は旧字体「湯淺」が正しいが「湯浅」で統一した。

*徳富家の家系図は徳富蘇峰のページを参照のこと。

湯浅與三 湯浅由郎 湯浅直代


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