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とくとみ かずたか

徳富一敬

とくとみ かずたか

1822.11.7(文政5.9.24)〜 1914.5.26(大正3)

幕末・明治期の漢学者、教育者

埋葬場所: 6区 1種 8側 13番

 肥後国(熊本県)水俣出身。惣庄屋の徳富美信・直子の長男。横井小楠の高弟。通称は太多助、太多七、号を淇水(きすい)。一敬を「いっけい」と読む場合もある。
 藩校時習館に学び、のち横井小楠の門に入る。1851(嘉永4)帰郷して、翌年葦北郡宰付監察に推挙され、民政に尽力。 維新後、1869(M2)の藩政改革で熊本藩奉行所書記兼録事となり、民力休養のため雑穀税の免除を決定させるなど藩の政治革新に努めた。 ついで民政大属となる。廃藩置県後、熊本県典事、白川県七等出仕に進む。
 1880熊本に実学党の教育機関である私立中学校共立学舎を開校し、漢学部で教えた。1882長男の徳富蘇峰(同墓)が開いた大江義塾でも漢学を講義した。 1886蘇峰に従い一家で上京。謹厳実直な人柄は勝海舟に愛された。享年92歳。亡くなった時、蘇峰は父の死に深く悲しみ、連載中であった『近世日本国民史』の起筆を延期するほど衝撃が大きかった。
 妻は矢島楫子(3-1-1-20)の姉の徳富久子(同墓)。3男4女を儲ける。長女の常子は陸軍大尉の山川清房に嫁ぎ、次女の光子は絹織業の振興につくした実業家の河田精一に嫁ぐ。 三女の音羽子は牧師の大久保眞次郎に嫁ぎ、その子である久布白落実は女性運動家。四女の初子(7-1-15)は湯浅治郎(7-1-15)の後妻となって、伯母の楫子が校長の桜井女学校に身を寄せ、その頃始めて着手された幼稚園の研究をした。 長男は徳富蘇峰(猪一郎)であり、次男の友喜は幼くして天祈。三男は徳富蘆花(健次郎)である。考古学者の徳富武雄(同墓)は孫。

<コンサイス日本人名事典>
<朝日日本歴史人物事典など>


徳富蘇峰墓所全体

*墓所は広大で数基の墓石が建つ。徳富一敬の墓は正面にある自然石「淇水先生墓」。徳富家墓所に関しては徳富蘇峰のページへ。



第271回 徳富蘇峰の家族 徳富一敬
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