肥後国(熊本県)上益城郡益城町字杉堂村出身。本名は徳富猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。号は山王草主人、頑蘇老人、蘇峰学人など。
筆名は菅原正敬、大江逸、大江逸郎。漢学者・教育者の徳富一敬(淇水)・歌人の久子(共に同墓)の第5子長男として生まれる。
1873(M6)熊本洋学校に入学。年少のため退学するが、1875父の言に従い再入学。1876熊本洋学校閉鎖にともない、上京して東京英和学校(第一高等学校の前身)に通学するが満足せず、京都の新島襄に感化し同志社英学校に入学。
1880同志社卒業直前に退学し、熊本に戻る。1882大江義塾を開き、父が漢学を、蘇峰は英学・歴史・経済・政治学等を教えた。
1885『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を私刊し文壇の注目を集める。1886『将来之日本』を田口卯吉の経済雑誌社より刊行、その好評により、大江義塾を閉鎖して一家をあげて上京。
1887.2.15(M20)民友社を設立し、雑誌『国民之友』を創刊。当時の総合雑誌として政治・経済・外交その他の時事問題を論じる一方、文学作品の掲載にも力を入れ、明治期の文学者たちの発表の場ともなった。
これに伴い、1888朝比奈知泉・森田思軒と共に主唱した文筆家集団「文学会」を月1回主催。坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴。矢野龍渓など多彩な顔ぶれであった(1891春頃まで続く)。
1890『国民新聞』を発刊し、社長兼主筆として、平民主義を掲げ藩閥政治を批判し、明治中期のオピニオンリーダーとして活躍した。
1891『国民叢書』(M24.5〜T2.8)、1892『家庭雑誌』を発刊。1894日清戦争では国民新聞社は戦況を総力取材した。
1895三国干渉を機に軍備の必要を唱え、富国強兵、国家主義を唱道。1896.5.20〜翌.6.28 新聞事業視察のため深井英五と欧米漫遊に出帆。
ロシアではトルストイを訪ね友好的な時を過ごした。1897帰国後、8.26松方内閣の内務省勅任参事官に就任(〜1898.12.27)。今までは進歩的平民主義の立場の執筆活動であったが、この就任により変節漢と非難される。
1898『国民之友』『家庭雑誌』『欧米極東』の3雑誌を『国民新聞』に併合する。1902国語調査委員会の委員に任命される。
'05日露戦争講和条約を支持し、それに反対する民衆によって国民新聞社は焼き討ちにあう(詳しくは松井茂【日比谷焼打事件】)。
'07日露戦後の朝鮮・満州・中国を視察旅行。帰国後、国民新聞の社会面の充実を期し、新聞の大衆化・通俗化をはかる。'10寺内正毅の要請により『京城日報』の監督の任に就く。以後、'18(T7)まで年2〜5回ソウルに赴く。
'11.8.24桂太郎の推薦で貴族院議員に勅任される。'13.2.10(T2)桂太郎の新政党を支持した国民新聞社は、「憲政擁護・桂内閣排撃国民運動」(「桂の御用新聞」と非難を浴びる)によって2回目の焼き討ちにあう。
この焼き討ちで発行部数は23万部から3割減少する。10月、桂の死後政界から離れ、一立言者としての本題に立ち返り『時務一家言』を発刊した。'15.11.3大隈内閣の新聞人叙勲で勲3等瑞宝章。'17中国視察旅行にて張作霖らと会見。
'18『近世日本国民史』第1巻「織田氏時代」を起稿(大正7年56歳の時から着手し、昭和27年90歳の時、100巻の大著を完成)。
'21.12.8二十余年住んだ青山邸宅地500坪を提供し、「平民大学」など社会教育の場とするため財団法人青山会館の設立を発表('25.4.3開館式挙行)。
'22『国民新聞』夕刊の発行を始める。'23.6.12『近世日本国民史』10巻で帝国学士院より恩賜賞を授与される。同年.9.1 関東大震災で国民新聞社は被害を被る。
再建資金で苦慮。'26宮内御進講控として出仕。国民新聞社社屋完成し移転、国民新聞社財政再建のため、根津嘉一郎(15-1-2-10)の出資を仰ぎ、国民新聞社を株式会社として経営を委ねた。
'28(S3)宮中にて「神皇正統記の一節に就て」を進講。同年勲2等瑞宝章。'29共同経営者との不和から国民新聞社を退社。『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』の社賓となる(〜'45)。'30.2.11蘇峰会発足(本部は青山会館で全国40支部)。'31大日本国史会が発足し会長。'37帝国芸術院会員。
'39『昭和国民読本』が50万部を突破し祝賀会が東京日日新聞社主催で開かれる。'40.6.29『近世日本国民史』の連載が1万回に達する。
'41皇室中心の国家主義思想は、第2次大戦下の言論・思想界の中心で、東条首相を訪問し新聞統合問題について意見を具申する。'42「大日本文学報告会」「大日本言論報国会」が創立されるや会長に就任。
この年『宣戦の大詔』を刊行。'43.4.29文化勲章を受章。同じ受賞者にビタミンを発見した鈴木梅太郎(10-1-7-8)や後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹らがいた。
'45.8.15玉音放送を山中湖畔双宜荘で聴き、毎日新聞社社賓、大日本言論報告会会長の辞任を表明。『近世日本国民史』の執筆を第97巻で中止。
A級戦犯容疑者に指名され、熱海の晩晴草堂に蟄居。'46持病のため自宅拘禁となる。貴族院議員、帝国学士院会員、帝国芸術院会員の辞表及び勲2等、文化勲章の返上の手続きをし、一切の公職を辞退。
'47.3.18東京裁判法廷に提出した「法廷供述書」が却下される。同年.9.1、戦犯容疑者自宅拘禁が解除され、21か月ぶりに晩晴草堂の門を開く。'48妻の静子が永眠(享年82歳)。
自らの戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」と誌し、墓標に「侍五百年之後」と題した。'51『近世日本国民史』第98巻に着稿。'52公職追放解除。同年.4.20『近世日本国民史』100巻完成。
熱海の晩晴草堂で逝去。享年94歳。絶筆「一片の丹心渾べて吾を忘る」(辞世の句)。遺言により赤坂の霊南坂教会に於いて小崎道雄(8-1-7-1)牧師によりキリスト教式の葬儀が行われた。
<徳富蘇峰記念館パンフレット略歴> <徳富蘇峰記念館内の詳細な略歴など>
【徳富家】
徳富家は代々、肥後国葦北郡水俣郷・津奈木郷の惣庄屋兼代官を務めた豪農で、蘇峰はその第9代当主である。父の徳富一敬は横井小楠の高弟。
姉は基督教指導者の湯浅治郎(7-1-15)に嫁いだ社会事業家の湯浅初子(7-1-15)、弟に小説家の徳富蘆花。教育者の竹崎順子は伯母、横井小楠に嫁いだ横井つせ子や教育者の矢島楫子(3-1-1-20)は叔母にあたる。
海老名弾正の妻となった海老名美屋(共に12-1-7-18)はいとこ。女性解放運動家の久布白落実は姪。
1884(M17)蘇峰が22歳の時に静子(1863〜1948 同墓)を妻として迎える。4男6女を儲けた。長男の太多雄(1890-1931.9.9 同墓)は軍人の道を歩み、海軍少佐、42歳で没す。
次男の萬熊(1892〜1924.9.16 同墓)は蘇峰の後継者として期待されていたが、チフスのため33歳の若さで逝去。6女の鶴子(1906〜2007.9.10)は『二人の父・蘆花と蘇峰』を共著し、矢野家に嫁ぐ。
4男の武雄(1909〜1960 同墓)は考古学者。太多雄の次男で孫の徳富剛二郎(1924-2006.8.21)は宮崎大学名誉教授の獣医学者で、「蘇峰会」常務理事を務めた。
弟の徳富蘆花(健次郎)とは、次第に不仲となり、1903(M36)蘆花が兄への「告別の辞」を発表する。 以後、長い間疎遠となっていたが、1927(S2)蘆花が伊香保で病床に就いた際に再会し和解をした。蘆花は「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという。
【多磨霊園に眠る人物と徳富蘇峰】
徳富蘇峰は多くの著名人と関わりを持ってきたが、ここでは特筆するに値する多磨霊園に眠る著名人を紹介する。
まず、著名人の墓石や碑石の筆を多く関わっている。墓石の筆として、姉の湯浅初子(7-1-15)、部下であった結城禮一郎(9-1-20-19)、政治家の馬場鍈一(10-1-7-12)、南胃腸病院長の南 大曹(10-1-2)、キリスト教関連で山室軍平、悦子(15-1-11-1)。
碑石では、血液循環療法始祖の小山善太郎(5-1-1-5)碑の「天地一指」の篆額、7区に建つ碑石「軍刀報国」の題額。
次に徳富蘇峰の歩みで特筆する人物を紹介する。蘇峰が熊本洋学校の学生時代である1876、生徒35名(熊本バンド)が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約した。
その署名した生徒に蘇峰はじめ、浮田和民(4-1-25)、海老名弾正(12-1-7-18)、金森通倫(15-1-13)らがいた。地元で開いた大江義塾での教え子に渡瀬常吉(23-2-27)がいる。
1902(M35)蘇峰の民友社より出版された村岡素一郎(7-1-9)著作の『史疑 徳川家康事蹟』は今の時代でもミステリアスで興味をそそられる。
「国民新聞」の建て直しにバックアップし社長を引き受けた根津嘉一郎(初代 15-1-2-10)。感化事業の父と称された留岡幸助(13-1-18-1)は、'31巣鴨の家庭学校本校にて奉教50年を祝う感謝の会で、蘇峰と会談中に脳溢血で倒れた。
また、ここでは取り上げないが、明治・大正期に活躍したほとんどの文豪とは深く関わっていたと推察する。
【徳富蘇峰記念館】
1969(S44)蘇峰の13回忌の5月、塩崎彦市(号:静峰)によって、その邸宅に建設された。塩崎は早くより蘇峰を敬慕し、戦前・戦中・戦後を秘書として身辺に侍し、蘇峰の逝去に至るまで苦楽を共にした。
その誠意に対し、蘇峰は、書簡・蔵書・揮毫・原稿・その他遺品の多数を塩崎に託した。塩崎はこれらを自ら蒐集していた資料と合わせ保存、公開することにより、蘇峰の永きに亘る偉業と精神が、新しい青年たちによって研究されることを願った。
'78(S53)塩崎の死後、遺族はその遺志を継承し、徳富蘇峰記念館塩崎財団を設立、神奈川県で17番目の博物館として引き続き公開していくことになった。蘇峰堂の梅林も同地で楽しむことができる。蘇峰も春秋の佳日には来遊したという。
住所:神奈川県中郡二宮町二宮605
開館日:月・水・金曜日
開館時間:10:00‐16:00
入館料:大人500円 / 中・高生200円
最寄駅:JR二宮駅(東海道線)
*徳富蘇峰記念館にはかねてより訪問をしたいと思っていたが、平日の週三日しか開いていないため、タイミングがあわず、ようやく、2011年8月に訪問することができた。
1階と2階が展示スペースとなっている。とても親しみやすい貴婦人が案内係として、一つひとつを懇切丁寧に教えていただいた。写真撮影の許可もいただき、興味深く拝見した。その貴婦人は話すところによると、竹越與三郎(5-1-21)のご遺族の方であり驚いた。
第270回 国民新聞 言論界の重鎮 徳富蘇峰 お墓ツアー
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