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ばば えいいち

馬場鍈一

ばば えいいち

1879.10.5(明治12)〜 1937.12.21(昭和12)

明治・大正・昭和期の官僚、政治家

埋葬場所: 10区 1種 7側 12番

 東京府芝区(港区)出身。旧幕藩士の山本時光の長男として生まれる。旧姓は山本。鉄道技師の馬場兼の婿養子となる。
 1903(M36) 東京帝国大学法科大学卒業し、大蔵省に入省。大蔵省税関事務官、横浜税関監視部長、韓国統監府財政監査官、同総務部経理課長などを経て、'07法制局に転じた。 '19(T8)中央大学理事就任。法制局では参事官兼行政裁判所評定官から、'22.3.28(T11)加藤友三郎内閣の法制局長官に就任。 同年貴族院議員に勅撰され研究会に属す。'27.10.7〜'37(S2〜12)日本勧業銀行の第6代総裁に就任し、農村金融の充実に尽力した。
 軍部台頭の時流の中で財政金融の革新を構想、岡田啓介内閣(9-1-9-3)の審議会委員、'36.3.9(S11)広田弘毅内閣の大蔵大臣に起用され、公債漸減主義の放棄・増税による軍事費中心の財政方針をした。 前任の高橋是清(8-1-2-16)蔵相の公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のため増税と公債増発を行うとする財政声明を出した。 政策遂行のため省内の人事刷新にも着手し、津島壽一次官を退任させたほか、軍部と強硬に渡り合ってきた賀屋興宣(9-1-1-8)主計局長を理財局長に異動させ、石渡荘太郎(11-1-10-2)主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと省外へ放出した。 このような急激な転換は財政会に不安を呼んだ。軍事費増額の予算案が決まると、原材料の需要増を見込んだ商社が一斉に輸入注文を出し、輸入為替が殺到して円が下落、輸入物資の高騰を招くなど混乱を招いた。 結局、予算案は浜田国松の「腹切り問答」を契機とする広田内閣の総辞職で流れ、林銑十郎内閣(16-1-3-5)の結城豊太郎蔵相によって軌道修正された。
 '37.6.4軍部の強い推薦で第一次近衛文麿内閣で内務大臣に就任したが、同年.12.14病を得て辞任。その七日後、心筋梗塞のため逝去。享年58歳。従2位 勲1等旭日大綬章追贈。法学博士。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*墓所は正面左側に和型で徳富蘇峰(6-1-8-13)の謹書「馬場鍈一墓」、右側は「馬場家墓」。墓誌はないが、「馬場鍈一墓」の右面に「昭和十二年十二月二十一日薨」と刻み、裏面に「昭和十三年九月 二世馬場克巳建之」と刻む。

*馬場鍈一の妻は信(M16.11生)。長男は馬場克巳(M38.4生)。二男の正夫(M39.12生)は、馬場鍈一の実父の山本時光の死跡を相続し、山本正夫となった。

*馬場家墓所の左側、バス通りに面した角地に「馬場鍈一胸像碑」がある。馬場鍈一像の他に馬場鍈一略歴の碑が建つ。これは「故馬場鍈一君記念会 代表者の子爵 青木信光が昭和十四年十月に建之したもの」である。なお、平成八年九月に碑文修復、原文は馬場鍈一記念会発行によるものである旨も刻まれている。

*馬場えい一の「えい」は、「金+英」です。


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