江戸出身。旧姓は川村。幼名は和喜次。仙台藩士高橋是忠覚治の養子。
1867(慶応3)藩留学生として渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出し帰国。本場事込みの語学力が認められ、16歳で英語教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師クビ、太鼓持ち・箱屋になる。教師復帰、翻訳業を経て、1887(M20)初代特許局長に就任。1889 一攫千金を狙いペルーの銀山開発に乗り出したが失敗し失意の底に沈み無一文。1892 才覚を認められ日本銀行へ。副総裁の時に日露戦争の外債募集成功。1905 貴族院議員勅撰。'07 男爵襲爵。'11 日銀総裁就任。
その後、子爵になり政治家として、7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣を歴任。二・二六事件で暗殺された。愛称は「ダルマさん」。七転び八起きの人生を地で歩んだ人物である。
【幼少期から人間万事塞翁が馬】
武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)出身。幼名は和喜次。幕府御用絵師の川村庄右衛門(当時47歳)と、行儀見習いのために川村家へ奉公していた きん(当時16歳)の不義の子として生まれる。庄右衛門の妻が同情し世話をしていたが、生後4日で仙台藩の足軽の高橋覚治是忠の養子となる。ところが養父母に実子が生まれたことで疎まれ、養祖母の喜代(9-1-1)に育てられる。
1855(1才)安政の大地震で高橋家が倒壊する。乳飲み子であった是清は梁(はり)と柱の間の隙間に偶然入るかたちとなり怪我もせずにスヤスヤ眠っており命拾いをした。
1857(3才)仙台藩中屋敷の神社の敷地で遊んでいたところ、参詣にやってきた藩主の奥方と出くわし、「おばさん、いいべべだ」と言い、奥方の膝の上にちょこんと座った。足軽の子どもが藩主夫人に抱かれるなどは当時の身分制度ではあってはならない事件であったが、お咎めされるどころか、後に上屋敷に呼ばれて褒美を頂戴するなど奥方から可愛がられた。およそあり得ないことに高橋の子は幸福者だと周囲に盛んに言われたという。
1858(5才)御三家の行列に飛び出してつまづき、先駆けの馬に踏まれるが、奇跡的に身体は踏まれず無傷で助かる。是清は自伝で藩主奥方との逸話やこの奇跡的に無傷で生還した事故に対して「私が生来の楽天家になった原因」と回想している。
養祖母に愛情深く、優しく厳しく育てられる。仙台藩の菩提寺の小姓奉公に出したのも養祖母である。養祖母は足軽では出世ができないため、足軽にはさせず、士分の子弟をお小姓におき、成人後は御家人の株を買い立派な侍にしたいという思いからであった。これがきっかけとなり、是清は寺に通っていた藩の重臣に目をかけられ、横浜で英学の修業する機会を得た。1864(元治1)11歳の時に是清は横浜へ行く。
【奴隷にされたアメリカ時代】
横浜でアメリカ人医師のヘボン塾で英語を学ぶ。更に銀行家のアレクサンダー・アラン・シャンド邸のボーイを務め、生きた英語を学んだ。ボーイ時代に同僚の料理人とツルみ酒を覚えて、ネズミを焼いて食べ、シャンドに「私のフライパンでそんなことはしないでください」と怒られ諭されたという逸話がある。なお、このシャンドは後の日露戦争の外債募集で大いに助けられることになる。
仙台藩から米国への留学生派遣の話が出たが、素行が悪かったためメンバーから外されそうになるも、熱意が伝わりメンバー入りを果たし派遣されることになる。このメンバーには勝海舟の息子の勝小鹿もいた。
1867(慶応3)藩留学生としてアメリカに渡る。その時に仲介をしたアメリカ人貿易商に学費や渡航費を着服され、ホームステイ先の両親にも騙され意味も分からずサインをさせられたところ、それが奴隷契約書(年季奉公の契約)であり、オークランドのブラウン家に売られた。この契約書は黒人奴隷とは異なる境遇ではあるが、自由を束縛される労働で奴隷に等しい内容であった。
内容を知った是清は憤慨し、主人に食ってかかったところ、主人から生意気だと言われ頬を殴られた。殴られたひょうしに思わず屁が出た。きまりが悪かったので怒りながらニッコリすると、そばにいた夫人が仲裁に入りおさまった。主人の家に帰らず逃げ出すこともできたが、それでは事は難しくなり返って迷惑をかけ脱出できなくなると思い、逆に主人側を呆れ返らせ向こうから暇を出させるようにしてやろうと考えた。毎日ランプや皿など手あたり次第、わざと壊したり割ったりした。ところが主人や夫人はそれを見ながら怒らない。そればかりか夫人は「そんな荒っぽいことはしてはいけません」と親切に諭してきた。これには当惑したと回想している。
結果、牧童や葡萄園で奴隷に近い身で働かされたが、キツイ勉強だと受け入れた。1868.12 奴隷解放署名などの活動で三年契約のところ一年余りで帰国が許される。この時、15歳であったが、ネイティブな英語力を習得できていた。
【教師クビの若気の至りで箱屋・太鼓持ちになる】
帰国したら明治維新が起き、仙台藩が賊軍になって降伏していたため戻れず、知人のツテで薩摩の森有礼の書生になり大学南校に入学した。しかし本場事込みの語学力が認められ、英学を教える立場に回り、大学南校三等教授手伝いとなり、16歳にして英語教師として教壇に立つことになった。
1870(M3)17歳頃、茶屋遊びを覚え放蕩(ほうとう:酒や女におぼれる)にはまる。ある日、芸妓を連れて浅草の芝居見物をし酒に溺れていたところ、外国人教師と出くわしてしまう。教師としての品行を問われ辞表を提出(実質クビ)した。
教師を辞めて収入がない中でも放蕩が止まず、生活に行き詰まり転がり込む形で、日本橋の流行芸妓・東家桝吉(あずまやますきち:「お君」)の家に居候。太鼓持ちとなり箱屋をやる。箱屋とは芸者の供をして三味線などを入れた箱を持っていき、刻限が来ると座敷に芸者を迎えに行く男のことである。時間になり是清が桝吉が出ている賑やかなお座敷に迎えに行くと急に客がシラケてしまう雰囲気が面白く楽しんでいたと回想している。
是清が住む部屋に養祖母の喜代が仙台からやってきた。「お前はもう意見をされる年合でもなかろうから、よく考えて一生を過(あやま)たぬようにしなさい」と伝え、朝夕神仏に是清が出世することを祈っていると諭された。これを機に改めて志を持ち、教師への復帰を心に誓った。
花柳界を客の立場と箱屋の立場を経験したことで、お金の流れや回り方、人との関係性、人情などを肌で感じ学びもあった。また最初の茶屋遊びで全く相手にされず発憤したと回想もしており、女性の目で男としても鍛えられた。
1871 横浜修学時代の知人から唐津藩で英語教師の募集があることを聞き、唐津(佐賀県)に行き英語教師となった。この時の教え子に建築家になる辰野金吾や、経済学者となる天野為之(9-1-9-1)らがいる。ところがここでも毎日三升もの酒を飲み、血を吐くほどの豪快な生活を送っていたという。
なお、桝吉こと「お君」は、是清が唐津に行くに当り芸妓を辞め、是清の養祖母の面倒を見るようになった。是清はお君と結婚するつもりであったが、お君の両親が家に帰るように説得され続け、是清が戻る前に、お君は実家に帰ることになり二人の縁は終わる。是清の自伝では、その後、お君は亭主を持ち、日本橋で待合を出して繁盛したという。お君も栄達する是清の姿に「昔、あの人を選んだ自分の目に狂いはなかった」と語っていたという。
【心改め校長までなるも相場に失敗】
1872 東京に戻り、駅逓寮に出仕したが。前島密の無礼な態度に憤慨して辞表を叩きつけた。その後の生活は、開成学校の教師をしていたドクター・マッカデーから『玉篇』の読み方をローマ字で写すバイトを月十円で頼まれ、同じく教師のグリフィスが日本に関する著述がしたいとのことで、是清が口で翻訳し自分で筆記していくというやり方で様々な日本の本を英訳する手伝いをした。このバイトも月十円であったため、両方合して二十円の学資となった。また末松謙澄らと英字新聞の翻訳も行う。
1873 森有礼の薦めを受けて文部省に入省し十等出仕となる。モーレー博士の通訳をした。1875 大阪英語学校長に任命されるが、友人と仏教研究に没頭していたため赴任せず、文部省の通訳を継続していた。この頃、実妹の香(かね)と養祖母の喜代と三人で一時同居していた。是清の産みの母の きん は後に浜松町の塩物屋に嫁いで香(かね)を生んだが24歳の若さで亡くなっていた。香(かね)は実家と折り合いが悪く是清の家に転がり込んだという(その後結婚したが若くして亡くなった)。またこの時期に柳と結婚し長男の是賢が生まれている(1877)。
1876 官立東京英語学校の英語教師となる。翌年、校長が吉原通いをしているのを知り校長追放運動を起こしたが、結果的に自分自身も辞職した。
1878 廃校になっていた共立学校(開成高校)を再興し初代校長に24歳の若さで就任。学ぶ目的は自分自身の固有の能力を伸ばし磨く事であり、対象の事物をよく注意観察することが学問の基本。それは学校以外でも得られること。ただ学ぶだけでは知識は自分のものにならない。思考力を用い、因果関係を究明し、その意味をよく理解することが大事。解からないことは質問をしてもよいが、教師は案内者に過ぎない、自分で自分を教育するのが基本であると訓示している。教え子は俳人の正岡子規や海軍中将の秋山真之ら多くいる。
今までの貯蓄を有為な青年たちの学費(奨学金づくり)を捻出すべく相場に手を出して大損した。そこで相場のメカニズムを学んでやろうという気概となり、仲買店を開業し、相場のカラクリを実地で学んだ。
【ペルー銀山の失敗で無一文になる】
1881 再び文部省御用掛、農商務省工務局雇と官途に就く。1885 農商務省の外局として設置された特許局の初代特許局長に抜擢され就任。欧米を視察し、特許制度を作り上げた。
この時期は画家を目指していた中村不折(3-1-15-10)を邸宅の空き部屋に住み込みさせたり、後に山武商會を創業する山口武彦(6-1-6)を世話して農商務省に推薦するなど教師出身ならではの面倒見が良かった。
欧米訪問の際に資力に欠しい日本人が軽蔑されているのを見て、農商務省農務局長の前田正名に力説していた。1889 前田が是清に「君はかねてから、日本人が発展の活路を見だすべきは、欧米諸国よりもむしろ中南米の諸国がいいと話していたな」と言われ、「ペルーの銀鉱を採掘する会社を設立して株主を募ることになったので力を貸してほしい。出資してもらいたい」と申し入れられた。
ペルーの中央銀行総裁の有力者のドイツ人のオスカル・ヘーレンが勤勉な日本人農民の移民を働きかけてきて日本側と共同経営を呼びかけていた。多くの移民希望の日本人は農業ではなく、この地域のアンデス山脈にあるカラワクラ銀山の鉱石採掘や銀山経営に強い関心を抱いていた。鉱山学会の第一人者である巌谷立太郎博士が分析し純銀に近い良鉱という後押しもあった。
田島晴雄が実地調査のためにペルーに派遣されたが、田島はヘーレンと資本金百万円で会社設立の契約を取り交わし、すでに四鉱区を二十五万円で買い取り、ヘーレンが日本側の資金を立て替えたため、農夫四百人を送らなければならなくなったと伝えてきた。日本側は驚き、前田に相談をし、前田が是清に出資のお願いをしてきたという流れである。
前田は五十万円の出資は、もはや発起人ではなく、会社を設立し、公に株主を募らなければならない状況だと伝えた。是清は外国で外国人と共同事業をすることを心配したが、一万円の出資を約束した。その後、牧野伸顕ら多くの出資者が株主となり、資本金五十万円の日秘鉱業株式会社(秘露)が設立された。
前田は是清に日本側代表としてペルーに行って欲しいと懇願した。しかし、特許局長を継続したかった是清はさすがに断った。しかし、前田は内密で農商務大臣の井上馨の賛同をとりつけており、是清には事後報告であり、これにより特許局長を免ぜられた。「我国乏しきものは資本にして余りあるは労力なり。余は同志と共にこの余力を用いて外国の財源を開き、これを本邦に注入する」と、今後のわが国の海外発展のために力を尽くそうと気持ちを切り替えた。
1889.11.16 汽船ゲーリック号に乗り込み、サンフランシスコを経由して、1890.1.7(M23)リマ西部のカリオに到着した。リマにあるヘーレンの別邸に滞在し、カスレス大統領や首相らと会談。その後、日本で採用した技手や職工ら先遣隊らと合流し、カラワクラ銀山に向かい、開坑式を行った。
同.3.26 技手が血相を変え、リマの本社にいる是清の前に現れ、鉱山は既に数百年間掘り起こされたあとの廃坑であることを伝えてきた。鉱山会社の支配人の山口慎が三日三晩、いくつもの鉱石を試験したところ貧鉱であることが判明したという。驚いた是清は、実地調査をした田島を呼びつけ事情を聞くと、実は実地調査をしておらず、報告書はペルーの鉱山学校にあった雑誌を翻訳しただけだと泣いて白状した。愕然とした是清は、精錬所の機械設計等を依頼していたフレザーシャマル会社のガイヤル技師に確認をとった。すると「それはまことに気の毒だ。あの鉱山は二十五万円どころか二千円でも買える。交通の便も悪く、多額の金を設備投資にかけても採算は難しい」と告げられた。万事休す。詐欺だと自覚した。実は怠慢な仕事をした田島は、大学予備門時代の是清の教え子であった。
これ以上損失を出さないために迅速に善後策を検討。直ちに東京に連絡をし本隊の渡航を見合わせように打電。田島が先に交わした共同経営の契約を破棄するため苦肉の策として、二百万円の新会社の株式募集をするために帰国すると告げ、新契約を結び、前の契約書を廃棄させた。同.6 帰国。すぐに株主に事実を明かし、事業の廃止と会社解散の合意をとりつけた。そして、ヘーレンには新会社設立は株主の賛同を得られなかったと電報で通告。新契約書には株主の賛同を得られない場合には共同事業は廃棄されるという条件を付けていた。これによりペルーに残っていた先遣隊も帰国させた。是清はこれらのことを「生涯で唯一、人を騙した」と回想している。
一万六千円ほどに増えていた債務返済のため敷地千五百坪の屋敷を売り払い、屋敷の裏の家賃六円ほどの家に引っ越した。鉱山経営は夢と化し、一文無しからのやり直しでも泰然と受け入れた。このペルー銀山事件はメディアのネタとなり世間を賑わした。事実を知らぬ世間は是清に誹謗中傷を与えた。失意の底に沈む中においても是清は誰も恨まなかった。
【どん底からの銀行家へ転身で復活】
1892.4(M25)才覚を認めていた日本銀行総裁の川田小一郎から「君は家族で田舎に引っ込むと言っているそうだが、それはいつでもできる。君の体を吾輩に預けてくれないか」と声をかけられた。実業界の経験がなかった是清は「丁稚奉公から仕上げていただきたい」と申し入れ、銀行家への転身を受け入れた。
同.6.1 日本銀行に入行。年俸は破格の千二百円で、日本銀行本店新築工事の建築事務主任の辞令を受ける。監督は安田財閥の祖の安田善次郎。技術部監督は唐津での教え子の辰野金吾であった。
まず倉庫の台帳を整理し材料の在庫品を正確に把握して資材調達の無駄をなくした。以前相場を研究していた経験から、輸入材料を調達している大倉組からの請求書の日付が、すべて為替相場が最低の日になっていることを発見。為替相場を利用して利ザヤを稼いでいることを突き止め、それを封じた。また工事遅延の原因が、大倉組の下請けである四人の石工の親方が賃上げを要求して頻繁にストライキを起こしていることから、大倉組との契約を解約。そして親方四人と直接契約を結び、四面を四人にそれぞれ請け負わせ、期日より早く仕上げたら一日につき五百円の賞与金を出す条件を示した。加えて伊豆の石切り場に監督官を派遣し、計画的に原料の石の加工、出荷をさせた。これにより大幅に遅れていた工事はほぼ予定通りに運んだ。
1893.9 実績を高く評価され、山口県下関に新設された日銀西部支店長に抜擢された。この時、39歳である。1895.8 横浜正金銀行本店支配人を経て、1899.2 日本銀行副総裁に就任した。
【日露戦争戦費調達に成功させ日本を救う】
1904.2(M37) 49歳、日本銀行副総裁の是清は築地の料亭の座敷に通された。そこには元老の井上馨、首相の桂太郎、大蔵大臣の曾禰荒助、日銀総裁の松尾臣善らが居並んでいた。ちょうどこの時期より日露両国は戦争に突入していたが、直後のロンドン市場で日本の公債価格は大幅に下落していた。旅順口奇襲や仁川沖海戦での日本の活躍とは裏腹に、経済や投資家たちは極東の小国が大帝国のロシアに勝つ見込みはないと判断されていたのだ。
宴席に連なった者たちは、是清を当時の国際金融の中心のロンドンに派遣して外債を募集させ、対ロシア戦争の戦費を調達させようとしていた。現状を知った是清は言葉を尽くして辞退を申し出たものの、君をおいてこの任を果たせる者はいないとまで言われ、首を横に振り続けることができなくなってしまった。ついに承認したとき、居合わせた全員が声を上げて泣いたといわれる。
アメリカ経由でイギリスに向かう途上、ニューヨークで新聞記者からインタビューを受けた際、日本は戦争のための資金調達に困っていないと大見得を切ってみせた。しかし実際の懐事情は厳しく、ロンドン到着後すぐに、日本の貿易金融・外国為替専門の特殊銀行、横浜正金銀行の取引先の英国の銀行に公債引き受けを打診した。しかし反応は芳しくなく、日本に好意的であったパーズ銀行や香港上海銀行でさえ、ロシア相手では勝ち目はないと公債募集を渋った。
是清は資本家のロスチャイルド一族など金持ちの投資家にも直接アプローチをかけ奮闘。その様子をみたパーズ銀行と香港上海銀行が公債発行の業務を取られると恐れ、引き受けても良いと申し出てきた。ただ条件が日本の間税収入を抵当としてきた。人員を派遣し税関を管理することは、あたかも植民地に対するがごとき要求に「外債のみならず内国債についても、今までただの一度も元利払いを怠ったことのない国」だと、是清は断固拒否。間税収入は日本国自らが行い支払いを行うとした。この時、間に立ち是清を支えたのがパーズ銀行副支配人のシャンドであった。シャンドは若き日の是清をボーイとして横浜で雇っていた人物である。是清もシャンドが頼みの綱でもあった。シャンドはパーズ銀行頭取のファーレーを説得し、更に香港上海銀行の取締役にも話をつけた。シャンドの働き掛けもあり両銀行は改め直し、五百万ポンド(当時の額で五千万円)を常識的な条件で公債発行に同意することになった。
公債の条件が決まり急ぎ発行する必要が出、第一回戦時公債発行の仮契約を結んだ。この仮契約に喜び晩餐会に招待してくれたのが、かつて日本に来ていた友人のヒルであった。ヒルの邸宅でニューヨークのクーン・ローブ商会(グローバルな金融財閥)の首席代表を務めていたジェイコブ・シフを紹介された。シフは毎年恒例のヨーロッパ旅行を終え、その帰路ロンドンに着いたところヒルにタイミングよく招待された人物であった。
晩餐の席上でシフはしきりに日本の経済状況や戦況を質問してきた。是清は丁寧に答え、その場で五百万ポンドの公債発行が決まった。是清は本国からあともう五百万ポンド調達できないかと言われていると告白。すると、翌日、パーズ銀行のシャンドが訪ねてきた。シャンドが同行の取引先であるシフが、五百万ポンドの公債を引き受けて、アメリカで発行したいと希望しているとのことであった。
シフはユダヤ人であり、ロシア領内で頻繁に起こっていた同胞迫害に心を痛めていた。日露戦争では断然日本に味方をすると決めていたが、もちろん感情論だけではなく、日本の情勢の推移を見守り投資のタイミングをはかっていた。1904.5.1 朝鮮から北上し鴨緑江を渡河した黒木為楨(8-1-2-15)の第一軍がロシア軍を撃破し退去に追い込んだニュースが報じられると、ロンドン市場では日本の公債が暴騰した。これを機にシフが日本支援を踏み切ろうと決断をした二日後(5.3)に是清と出会ったのである。是清の出会いが大きな後押しとなり、シフとクーン・ローブ商会は日本に対する全面的支援に乗り出し、シフの人脈が外債を引き受け、六回に渡る公債募集の戦費調達の成功に導いた。
なお是清の交渉術の考えは「お互いを理解し合う」ことを大事にしていた。当時の極東の日本を西洋人たちはあまり詳しく知らない。そのため是清は商談をする前に必ず日本の歴史を紹介しつつ、二千五百年来の天皇の存在や日本の国民性である武士道を説明した。武士道は話題となり興味を抱いた資産家たちは、是清を公の宴会場ではなく、個人的に友人として自宅に招くようになり、是清を通して日本人の誠実な人間性が信用を獲得していった。また日本で生活をしたことがあるシャンドも後押しとなった。結果的に、日露戦争の総戦費支出18.7億円の43%にあたる、約8億円もの公債募集の成果へと結びついた。
いったん帰国後、1905.1.29 貴族院議員に勅選される。同.2 再び渡英し公債募集を行った。同.9 公債募集に成功し日露戦争にも勝利をしたため、是清は時の人となる。なお、この時の国家予算の60年分の借金は1986(S61)に完済した。
'06.3 日本銀行副総裁のまま横浜正金銀行頭取を兼務。'07.9.23 公債募集の勲功により男爵を授爵した。'11.6 第7代 日本銀行総裁に就任。
【7度の大蔵大臣と総理大臣】
'13.2(T2) 第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、立憲政友会に入党する。'14.4 山本内閣が総辞職。'18.9 政友会の原敬が組閣した際に2度目の大蔵大臣となる。この時期、お仕着せの画一的教育に否定的である是清は『内外国策私見』で文部省廃止論を述べた。同時に参謀本部廃止論も書いている。'20.9.7 男爵から子爵に陞爵(しょうしゃく)する。
原が暗殺された直後、元老の松方有朋は西園寺公望(8-1-1-16)を首相に推薦したが本人が固辞し、その西園寺が財政政策の手腕を評価し是清を後継首班に推した。ところが政友会には反対の声もあり田健次郎(2-1-6-6)を復帰させ横田千之助を総裁にするまでの中継ぎの総裁就任の要請案が浮上した。しかし田健次郎自身が固辞し、横田の急死もあり、他にふさわしい人材も見当たらず是清に大命が下った。
'21.11.13 第20代 内閣総理大臣に就任し、大蔵大臣(3度目)を兼務。また同時に立憲政友会の第4代総裁となった。67歳の時である。多磨霊園に眠る高橋内閣の閣僚は、外務大臣の内田康哉(11-1-1-6)、内務大臣の床次竹二郎(12-1-17-18)、法制局長官の馬場鍈一(10-1-7-12)がいる。また内閣誕生後に皇太子の裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任した(大正天皇が病気のため国事にあたる)。
政治の課題はワシントン軍縮会議であり、派遣した加藤友三郎海相が手腕を発揮した。首相としてこれといった実績を挙げていなかった是清は求心力も乏しく、'22.6.12 組閣七か月後に中橋徳五郎文相、元田肇鉄相が首相と対立して内閣不一致となり総辞職(在任期間は212日)。後任はワシントン会議で功績をあげた加藤が就任することになった。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾内閣では支持と不支持を巡って大分裂した。脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方の高橋が率いた政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出た(懲罰解散)。清浦内閣は貴族院内閣や特権内閣と揶揄されていたことから、同じ貴族院議員であった是清は、'24.3 貴族院議員を辞職して、子爵の爵位を長男の高橋是賢(同墓)に譲り隠居。当時は有爵者は衆議院議員としての被選挙権がなかったため、爵位を譲ることで出馬が可能となり、同.5 第15回衆議院議員総選挙で原敬の旧選挙区である岩手県盛岡市から立候補。与党政友本党の対立候補の田子一民に予想外の苦戦を強いられたが、49票の僅差で当選。結果的に選挙は護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職を余儀なくされた。
同.6 新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、是清を農商務大臣に任命した。'25.4 農商務省の分割再編に伴い、農林大臣 兼 商工大臣に横滑りしたが、二週間後に両大臣を依願免職。政友会総裁も田中義一(6-1-16-14)に譲り、70歳の古希を機に政界を引退した。
【昭和金融恐慌から日本を救う】
'27.3(S2)昭和金融恐慌が発生。同.4 瓦解した第1次若槻内閣に代わって田中義一内閣が組閣。田中首相は余生を送っていた是清に直々に大蔵大臣への復帰のお願いにあがった。「祖国を見捨てるわけにはいかない」と、自身4度目の大蔵大臣を引き受け、72歳で政界に復帰。
第一次世界大戦による好景気から各企業は競うようにして事業を拡張させたが、やがて戦後の反動により打撃をこうむり、さらに関東大震災(1923)の悲劇に見舞われた。公布された震災手形割引損失補償令だったが、最終期限の昭和二年になっても不良債権は整理されずにいた。深刻であったのは二億円を超える震災手形の約半分を占めていた台湾銀行と手形の七割を抱えていた鈴木商店であり、'27.3.14 衆議院予算委員会の中で片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」という失言により(実際はまだ破綻していなかった)、預金者が殺到し取り付け騒ぎになったことをきっかけとして他の銀行にも飛び火。同.4 鈴木商店が倒産し、その煽りを受け台湾銀行が休業。更に宮内省御用達の十五銀行の休業が明らかになると金融不安がピークに達した。このような状況下での大蔵大臣就任であった。
是清は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予を認める緊急勅令渙発(支払猶予措置:モラトリアム)を行うことを、同.4.21 政府発表の形で記者を介して報じた。これは全国の各銀行に対して支払い延期を設定するもので、小口支払制限を五百円以内とし、俸給や賃金支払い以外は支払いを延期。その期間は20日間に決定した。政府は財界安定の今後の対策のために直ちに臨時議会を開くことを決定し、詔書(天皇の公文書)は22日に発せられると発表した。ところが、詔書を発せられるためには天皇の御裁可が要るのであるが、田中首相が発熱し寝込んでしまったため、是清が総理大臣代理となって委曲奏上した。
取り付けに対する対策として日本銀行券(紙幣)を用意しなければならない。そこで「ありったけの紙幣を用意しろ。刷れるかぎりの紙幣を刷れ」と指示。片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行し五百万円を用意。銀行の店頭に紙幣を積み上げて見せることで預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
同.5.4 臨時国会開院。会期は残り4日間。支払猶予令の事後承諾、日銀の特別融通補償と台湾銀行救済融資の二法案の審議。野党の反対に遭い審議が引き延ばされ会期が終了したらこの国は破綻する。覚悟を持ち是清は審議に臨んだ。最終日まで審議が延び、会期が後六時間で満了となる頃に、男爵の阪谷芳郎が是清の人格と手腕と徳望に信頼し本案に賛成すべきだと全議員に訴えた。結果、会期満了三十分前に法案は可決した。
ある新聞記事の国民の声が掲載された。「先生は恰幅(かっぷく)の良さと豪快な笑顔をお持ちです。これまでの実績とその笑顔、国民は安堵するのです」。同.6 金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願免職した。
【世界恐慌からも日本を救う】
国民は「ああダルマさんが出てきた。もう大丈夫だ」と言われるほどの信頼を得ていた大蔵大臣の高橋是清。この時もそうであった。
'29.10.24(S4)ニューヨーク・ウォール街での株価暴落をきっかけに、世界中が大恐慌に陥った。米国の株価は80%以上下落し、工業生産は三分の一以下に落ち込んだ。世界貿易も株価暴落から三年間で70%減少し、世界の失業者は五千万人に達したという。この大デフレ不況の「世界恐慌」は日本にも襲い掛かった。
大恐慌当時の濱口雄幸内閣の大蔵大臣の井上準之助は、第一次世界大戦を機に停止していた金本位制への復帰を果たそうとしていた(金解禁)。金本位制とは通貨の価格が「金」と結びついている仕組みで、日本の場合は「1円=金0.75グラム」と交換ができると決められていた。各国も同様に金と交換レートを決めていたため、いつでも安心して交換ができる一種の固定相場になっていた。それゆえ貿易や国際的な金融取引、海外からの外債募集などで都合が良い仕組みであった。
井上準之助は金本位制への復帰のために緊縮財政政策を取っていた。ところが世界恐慌のデフレ不況の中では、ただでさえ冷え切った経済状況で引き締めを行ったことが逆効果になり、日本を一気に不景気のどん底に叩き込んでしまっていた。さらに金本位制の場合、自国通貨を発行した分だけ、自国に「金」を保有しておかねばならず、すなわち保有している「金」以外の通貨を発行することができない状況である。また他国より金利が低いと、より金利が高い国を求めて資金が流出するため、デフレ不況時の金本位制は足かせ以外の何物でもない状態であった。
'31.12 政友会総裁の犬養毅が組閣した際、犬養首相直々に懇願され5度目の大蔵大臣に就任。同.12.3 就任して即日、金輸出再禁止(金本位制の離脱)を行う。さらに日本銀行による直接国債引き受け、日銀の通貨発行限度額の引き上げなどによって通貨をどんどん流通させ、低金利政策によってお金を借りやすくし、併せて、農漁村や中小商工業者を救済するために土木事業を中心とした公共事業(時局匡救事業)を行った。これらの政策により「100円=49ドル」が水準であったが、'33「100円=25ドル」と円が下落し円安になった。円安は輸出しやすくなる。昭和四年度に21億円の輸出額は、昭和六年度に11億円とほぼ半減していたが、昭和九年度には21億円に戻り、その後は増加し続ける結果となった。
1930(昭和5)頃、日本国内の庶民の生活はどん底に突き落とされていた。デフレ不況に加えて、昭和五年は大豊作で米価が下落。更に翌年は東北地方が一転冷害凶作に陥ったにも関わらず米価が回復しない状況に見舞われていた。大正十四年(1925)に米価の価格は十俵が13円60銭であったが、昭和五年には6円28銭に暴落。米専業農家の収入は半減する事態であった。この状況を是清の政策で劇的に改善させ、昭和六年から昭和十一年にかけて、国民所得は実に60%であり、物価上昇以上に所得が急騰した。最も回復に時間がかかった農家の所得も、1930年代中頃からは増加し始め、30年代末には世界恐慌以前の好況時の所得水準に戻った。これは世界各国の中でもダントツに早い景気回復であり(アメリカの景気回復は太平洋戦争後)日本のケインズと称された。
【日本の経済を考えたことで軍部の恨みを買い暗殺】
'32.5.15 犬養首相暗殺(五・一五事件)で、急きょ内閣総理大臣を10日間臨時兼任した。続いて斎藤實(7-1-2-16)が組閣した際も大蔵大臣を留任(6度目)。'34.7 斎藤内閣総辞職し、岡田啓介(9-1-9-3)内閣が発足した際は大蔵次官であった藤井真信を推し大蔵大臣に就任させたが、同.11 藤井が肺気腫で倒れ辞任したため、7度目となる大蔵大臣に就任した。なお岡田啓介は共立学校教師時代の教え子である。
大蔵大臣として世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させることに成功させていた。その一環で失業者救済のための土木事業を多く起こし、関東大震災後そのままバラック建で放置されていた省庁等々の再建を行った。横浜税関(クイーン塔)もそのひとつであり、横浜税関長の金子隆三(10-1-10)の指揮で再建を果たしている。現在も掲げられている「横浜税関」の看板は是清の筆である。このように是清が大恐慌に対処した期間(1931.12-1936.2)の実質経済成長率は7.2%、インフレ率は2%である。
'35 ほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算の抑制をしようとした。陸海軍からの各4000万円の増額希望に対し、是清は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と希望を突っぱねた。
国民からの支持を失いつつある政党政治を立て直し、軍部に対峙しようとした。'36.2.20 開票された総選挙では、是清が大蔵大臣を務めていた岡田内閣の与党・民政党が大勝した。これは国民が是清が進めた経済政策を信任したことを意味した。しかし、軍事予算の抑制から軍部の恨みを買っていた是清は六日後、同.2.26「二・二六事件」において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに暗殺された。従2位 勲1等。旭日桐花大綬章。享年81歳。正二位・大勲位菊花大綬章追贈。
葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。葬儀には一般庶民たちが何百人も列をなしたという。なお、是清没後の翌年から支那事変が勃発し、軍事費はうなぎのぼりに増加、国民生活は敗戦の破綻へと追い込まれた。是清が生きていたら全く別の昭和があったかも知れないと言われた。
1997(H9)ロシア革命後に散逸したロマノフ王朝の金貨が、是清の直接の指示で軍用品に偽装されて日本に移送、日本の金貨に鋳造し直されていた史実が明らかになった。
【二・二六事件 高橋是清蔵相襲撃】
1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率い、「昭和維新断行 尊皇討奸」を掲げ、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、腐敗が収束すると考え起こした反乱事件が起こった。
この「二・二六事件」で、岡田啓介(内閣総理大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤實(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、渡邉錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)、後藤文夫(内務大臣)が狙われ、是清、斎藤實(7-1-2-16)、渡邉錠太郎(12-1-10-15)が殺害された。殺害された人物は全員多磨霊園に眠っている。また、首相官邸襲撃を受けた際に、岡田啓介(9-1-9-3)首相の護衛警官を務めていた村上嘉茂左衛門(12-1-15)巡査部長や土井清松(12-1-15)巡査らが殉職。その首相官邸襲撃の指揮を執った林八郎(7-1-13-23)や、岡田首相救出に一役買った迫水久常(9-1-8)、それら関わった人物たちも多磨霊園に眠る。
是清を襲撃したのは近衛第三連隊から参加した中橋基明中尉指揮の第七中隊に、近衛師団司令部からただ一人参加した大江昭雄曹長を加えた百三十七名だった。大江曹長は中橋中尉のかつての部下で、是清襲撃を事前に知らされた数少ない下士官のひとりである。
中橋中尉が部下の齋藤一郎特務曹長と大江曹長の二人を連れて歩一の栗原のもとに弾薬受領にきたのは前夜の午後十時半頃だった。曹長たちは「演習用だ」といい、小銃実弾約千発、拳銃実弾約二百発を受け取り帰隊した。中橋中尉が第七中隊に非常呼集をかけたのは午前四時二十分頃。決起部隊では一番遅い非常呼集である。現在の港区赤坂7丁目の是清邸宅までは直線距離にして1キロもない距離であった。
午前四時五十分営門を出発。その際、衛兵司令には明治神宮参拝と告げた。襲撃隊は中橋中尉が自ら指揮する第一小隊(突撃隊)六十三名と、中橋に無理やり参加させられた今泉義道少尉指揮の第二小隊(衛兵控兵隊)に分けられた。シャム公使館近くの暗がりにきたときに一時停止が命じられ、そこで第一小隊のみに実包が配られた。その場で着剣と弾込めが行われた。そして中橋中尉は「高橋蔵相は奸賊(かんぞく:にくむべき悪人)であるのでこれらを倒し、昭和維新を断行する」と初めて部隊に本当の出動目的を告げた。第二小隊はその場で待機を命じ、中橋中尉の第一小隊の前進を命じた。
襲撃は表門から中橋中尉たちが入り、東門から中島少尉たちが門を乗り越えて侵入した。中橋中尉と中島少尉の二人のみが、二階の十畳間の寝室にいた是清と対峙。中橋中尉は「国賊」と呼びて胸に6発拳銃を射ち、中島少尉は軍刀で是清の左腕と左胸の辺りを突いた。是清は言葉を発することなく唸りながら倒れ、ほぼ即死で絶命した。是清の左腕は肩の付け根から取れそうなくらいブラブラしていたという。こうして襲撃は瞬時に終わった。他の襲撃隊のように万歳も歓声も起きなかったという。なお高橋蔵相邸警備の玉置英雄巡査が負傷したのみで他に死者は出なかった。
【是清の性格と著作】
大食漢であり、ふくよかな体型であったことから愛称は「ダルマさん」。人の三倍食べ酒も豪快に飲んだが、その裏腹に勝負事を好まず、碁や将棋も覚えなかった。相撲などの勝ち負けがあることは面白くないとほぼ見ず、釣もやったが釣れたからと長く居ようとは思わない性格だった。もっぱら昼寝が好きで、時間がある時は気ままに寝るという性質であった。
養祖父からの教えは「自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の手で道をひらけ」であり、養父は途中で投げ出すことを許さない人であり、その素地がその後の逆境を跳ね返す力となっていくことになる。
晩年の是清は「国防というものは、攻め込まれないように守るに足るだけでよいのだ。だいたい軍部は常識に欠けている。陸軍幼年学校のように社会と隔離した特殊の教育をするということは、不具者をつくることだ。陸軍ではこの教育を受けた者が嫡流とされ幹部になるから、常識を欠くのは当然で、その幹部が政治にまでくちばしをいれるというのは言語道断、国家の災いというべきである」と述べていた。
「顧(かえり)みれば予の前半生もまた波瀾重畳(はらんちょうじょう)、種々(いろいろ)なる逆境を嘗(な)めて来た」と波乱万丈の人生を述懐した『立身の経路』(1912)を刊行した。亡くなった年(1936)には、『処世一家言 半生の体験』、『半生の体験 世に処する道』、『随想録』(上塚司編)、『高橋是清自伝』(高橋是清口述・上塚司編)、『高橋是清 経済論』(上塚司編)、『国策運用の書』(山崎源太郎編)、『是清翁遺訓 日本国民への遺言』(大久保康夫編)が立て続けに刊行された。是清は自身のことを「自分は運がいい」と言ったが、「運のよさ」だけではなく、是清の「運をつかむ」生き方にこそ注目すべきであるというのが、その後の高橋是清を題材とした著作物などの共通の認識である(良いも悪いもまず事実を受け止め、どうするかの未来を考える姿勢)。
「七転び八起き」の人生を地で生きた是清は、このような名言を残している。
『機会は決して作るべからず、自然と自分の前に来たところの機会を捉えなければならぬ』
【「50円札紙幣」の肖像画】
1951.11.24 大蔵省告示第1752号「昭和二十六年十二月一日から発行する日本銀行券五拾円の様式を定める件」で高橋是清の肖像画が採用された。肖像画の下には月桂樹があしらわれている。裏面は日本銀行本店本館であり、日銀総裁出身者の肖像が日本銀行券に使用された唯一の例である。寸法は縦68mm、横144mm。
1927(S2)昭和金融恐慌のときに是清の指示の中、五拾圓券発行をする予定であったが、発行前に自体が沈静化したため未発行となった。そのため、是清が肖像画となった五十円紙幣(B五拾円券)が日本銀行券として発行されるのは初めてであり、政府紙幣を含めても明治通宝五十円券以来である。
1951.12.1(S26)発行が開始。しかし、1955.9(S30)に五十円硬貨(無孔ニッケル貨)が登場したことで紙幣の需要が急減し、同年中には発行開始から僅か4年で五十円紙幣の製造が終了。1958.10.1(S33)には日本銀行からの支払も終了した。
【高橋是清 墓所】
高橋是清の墓所「8区1種2側16番」は管理事務所で配られている案内でも有名であるが、高橋家先祖代々墓は「9区1種1側」にある。
高橋是清の墓所には和型「正二位 大勲位 高橋是清墓」、裏面「昭和十一年二月二十六日薨」と刻む。墓石の右側に「御誄」の碑が建つ。誄(るい)とは天皇陛下より賜るご弔意。
〔「御誄」の碑文〕
資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ(糸予)タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム
※(糸予)は部首がいとへんに「予」を合わせた一文字。
【高橋家先祖代々墓と家族】
9区にある「高橋家先祖代々墓」は五輪塔が建ち、裏の台座に「昭和十六年十二月 子爵 是賢 建之」と刻む。右側に高橋家墓誌が建つ。先に高橋是清墓が建ち、代々墓はその5年後に建てたことがわかる。
是清の戒名は報國院殿仁翁是清大居士。墓誌より、育ての養祖母の喜代(墓誌の俗名はきよ:1889.3.21歿・行年87)も眠る。高橋是清の先妻は 柳(1884.8.4歿・行年29才:柳芳院眞應貞鏡大姉)で西郷利右衛門の娘。是清と柳の間には2男2女。長男の是賢と二男の是福を生むが若くして亡くなる。なお、多くの人名辞典には名前を「里ゆう」とするものがほとんどであるが、墓誌には「柳」と刻む。どちらも呼び方は「りゆう(りゅう)」。
長男は高橋是賢(1877.3.14-1949.3.17:大乗院春喜是賢居士:同墓)で是清が衆議院選挙に出馬をするために子爵の爵位を生前に譲っている。是賢も子爵議員を務めた。是賢の妻の愛子(1888.12-1971.7.24:本乗院賢窓慈愛大姉:同墓)は黒木為楨とヒヤク(共に8-1-2-15)の二女。日露戦争の英雄と外債募集の成功者の子息同士が結ばれている。
二男の高橋是福(1881.6-1935.1.30:泰徳院殿賢量是福居士)は株式会社帝都座を創設して社長を務めた実業家で、分家して多磨霊園の6区1種1側に墓所がある。是福次女(是清の孫娘)の福子は伊藤博文の孫の伊藤博精に嫁いだ。二人の娘(是清の曾孫)の文子は出雲国造家の千家達彦に嫁いだ。
長女の静は6歳で早死(1883.12.9歿:同墓)、二女の須磨は2歳で早死(1884.1.25歿:同墓)。
後妻に鹿児島県士族の原田金左衛門の長女の 志な(品子:1865.1.9-1946:墓誌に刻みなし)を娶る。4男1女を儲ける。
三男は不明(墓誌に刻みなし)。四男の是道(1889 M22.10.17歿・行年1才:同墓)は早死。三女の和喜子(1891.5-1964) は大久保利通の八男の大久保利賢に嫁ぐ。和喜子の息子がロッキード事件で有罪判決を受けた丸紅専務の大久保利春である(大久保家の墓は青山霊園1ロ12-7/10)。
五男の高橋是孝(1893.6.30-)は東京高工応用化学科、牛津大学機械科を卒業後、商工省、旭硝子などを経て、ボルデイ製鋼所日本支店長を務めた。前妻はドイツ人のアニタ。後に離婚し、後妻は喜美子(佐々木捨松の二女)。
六男の高橋是彰(1901.1-1995)は大倉商事取締役、大洋無線常務、ピアコムジャパン社長を務めた実業家。妻の頼は菊池幹太郎の二女で、妹の正は甘露寺方房(14-1-1)の妻。長男の高橋正治は三井物産副社長・ピエールカルダン会長。
是清は妾の子が4人おり養子として同じ家で育てた。なお妻の品子も同意の上で妾も一緒に住んだ。妾との子は、長女の真喜(M42.8-)、二女の喜美、三女の美代、四女の栄。喜美は三井銀行の銀行家の岡千里に嫁ぐ。美代は荒居商店の荒居賢太郎に嫁ぐ。栄は塚越喜一郎に嫁ぐ。
是清の長男の高橋是賢と愛子は3男4女を儲ける。是賢長男は賢一(1914.3-1999:同墓:墓誌に刻みがない)。賢一の妻は美千代(大日本体育協会理事の牧田清之助の長女)。2男1女(秀昌 1947-、康秀 1952-、礼子 1945-)。賢一は東京帝国大学農学部卒業、陸軍獣医少尉を経て農林省で官僚を務めたのち北海道議会議員となり議長も務めた。他方で是清が北海道伊達市に創業した高橋農場の3代目場主として農場をサラブレッド競走馬の牧場に転換し、1977(S52)東京優駿(日本ダービー)優勝馬のラッキールーラなどを生産した。なお8区の高橋是清の墓と9区の高橋家の墓の二ヶ所とも、賢一が亡くなるまで墓所管理者を務めた。
是賢長女は慶子(1911.3.19歿・行年1才:同墓)。是賢二女の照(1912.12-)は東成行に嫁いだ。是賢二男の高橋豊二(1915.9-1940.3.5:(皋羽)翔院環山道豊居士:同墓)は第11回ベルリンオリンピックの日本代表サッカー選手。是賢三女は艶(1916 T5.12-1940.1.5・行年25才:同墓)。是賢三男は康三(1919 T8.11-1944.12.27・行年25才:同墓)。是賢四女の多惠(1921.10-)は横浜正金銀行の小野八寿雄に嫁いだ。
他に墓誌には、一晃(S20.4.12歿・行年2才)、攝子(S25.7.10歿・行年1才)の刻みがある。
*東京世田谷区弦巻にある実相院に「高橋是清翁之鬚墓」が建つ。画家の永井如雲が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓である。
※(皋羽)は「皋」に「羽」を合わせた一文字。
<「立身の経路」高橋是清> <コンサイス日本人名事典> <政治家人名事典> <内閣総理大臣ファイル> <図説 2・26事件> <日本近代紙幣総覧(ボナンザ)> <歴史街道 2013 6月号「好景気を呼び寄せた男 高橋是清 運をつかむ生き方」 童門冬二/渡部昇一/松田十刻/赤城毅/秋月達郎/井上泰/若田部昌澄> <人事興信録など>
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