北海道出身。大蔵官僚・政治家の土屋大次郎の子として生まれる。旧姓は土屋。実弟の土屋計左右は第一ホテルの創業者。甥で土屋計左右の長男の土屋計雄(16-1-1)は日本ホテル協会会長を務めた人物。
1911.7(M44)東京帝国大学法科大学政治科卒業。大蔵省に入省し、税務監督局属・宇都宮税務監督局に配属された。同年秋に文官高等試験に合格し、'12.10(T1)東京税務監督局属 兼 大蔵属として主税局に配置換えされた。この時期に実業家で政治家の金子元三郎(同墓)の娘の美代子(同墓)と結婚し婿養子となり、金子姓となった。
'14.11 司税官となり品川税務署長、'15.8 永代橋税務署長、'17.3 税関副事務官として大阪税関監視部長 兼 総務課長、'18.11 税関事務官として大阪税関監視部長 兼 総務課長を務めた。
'20.2〜'21.7 英国留学。帰国後、'21.11 大蔵事務官として主税局、'23.6〜'24.12 大蔵書記官を兼務、'27.5(S2)大蔵事務官 兼 大蔵書記官として預金部監理課長、'29.7 預金部運用課長、大蔵書記官を歴任した。
'32.1(S7)第22代 横浜税関長に就任。関東大震災で倒壊したままであった横浜税関を建設を指示。建物はイスラムのモスク風であり「クィーン塔」として現存している。
'34.12.26 預金部長。'36.8.14 大蔵省を退官し、朝鮮殖産銀行理事となり、'40.8〜'45.9 朝鮮殖産銀行副頭取を務めた。
*正面墓石は和型「金子家之墓」、裏面「昭和二十七年八月 金子隆三 建之」。墓所右手側には墓誌が建ち、隆三の二男で戦死した金子元威から刻みが始まる。元威には「海軍少佐」と刻む。次は金子元三郎で「元貴族院議員」と刻む。次は元三郎の娘の金子美代子で「金子隆三妻」と刻む。その後に「昭和三十二年七月先祖徳善院殿より五代目徳樹院殿まで及び金泉家先祖両霊等十四霊を小樽墓地より改葬埋骨し畢ぬ」と刻む。なお墓誌はその後、10才で亡くなった金子三郎長男の金子光正、元三郎の妻の金子太津子、金子隆三には「元朝鮮殖産銀行副頭取」、金子三郎の妻の金子直子、金子三郎(T11.7-H22.11.17)には「元第一火災海上保険相互会社社長」と刻む。
*墓所左手側には和型「金子隆哉家之墓」、裏面「昭和四十八年十一月 金子龍太 建之」。右面が墓誌となっており、金子隆三の4男の金子隆哉、妻の金子香代子(H23.10.13歿)が刻む。隆哉は45歳の若さでくも膜下出血にて急逝(T15.3-S47.1.27)。有能な社員であり社葬で報いた。隆哉の妻の金子香代子は「金子香代」の名義で伝記的エッセイ『没落家族のゴールデン・デイズ』(2006)を刊行。「波濤短歌会」の第一同人、「日本歌人クラブ」会員、またエッセイでは世田谷文学賞(随筆)3年連続受賞した。他にも毎日新聞や北海道新聞でも受賞している文筆家である。
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