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おび かろう

小尾嘉郎

おび かろう

1898.5.20(明治31)〜 1974.12.8(昭和49)

大正・昭和期の建築家、神奈川県庁「キング塔」設計者

埋葬場所: 2区 2種 6側

 山梨県北巨摩甲村字五町田(北杜市高根町)出身。小尾小太郎の長男として生まれる。
 県立甲府中学校時代は文学に傾倒していたが、父の勧めで建築に興味を持つようになり、東京帝国大学工科を志望するようになった。父は洋服屋を営み経営は順調であったが、事業の失敗や相場に手を出し失敗と財産を失う。このため、入学試験そのものを受けることができなくなり、勉学にも打ち込めず、第四高等学校を受験するも失敗した。1年浪人をして、1918(T7)名古屋高等工業建築科に第14期生として入学した。この時の建築科長は夏目漱石の義弟としても知られる鈴木禎次であった。鈴木禎次は雑司が谷霊園にある夏目漱石の墓石をデザインしている。嘉郎は鈴木の助手として松坂屋の設計を数多く手がけた。
 '21 卒業し、東京市電気局工務課の技手となる。'23 関東大震災以降、復旧のため仕事が多忙となった。落ち着いた頃より、住宅の懸賞設計にこつこつと応募するようになる。 '26.3.5 関東大震災で前県庁舎が焼失しており、仮庁舎のままであった神奈川県庁舎を再建しようと、神奈川県庁舎懸賞設計競技が公式に発表された。審査委員長は耐震構造学の権威と称された建築家の佐野利器を筆頭に、計7名の建築家や県内務部長が審査した。
 応募締め切りは6月10日。小尾は体調不良からスタートするのが遅れ、4月中旬からスケッチに着手し、5月に入って製図に取り掛かり、間に合いそうもないので友人に手伝ってもらい、最後は鉛筆の下書きを消し切ることもできず応募した。デザインは最初は洋風でやってみたそうだが、面白くないので日本風を加味し塔、庇(ひさし)、玄関についてはかなり努力を払ってこだわったそうだ。なお、塔の日本風のデザインに苦しんでいた時に、父の小太郎が「五重塔をのせれば良いではないか」とアドバイスがあったという。
 1926.6.21 神奈川県は審査結果を発表。応募総数398件、結果は見事、小尾の設計図が一等に当選された。賞金は五千円であった。昭和初期の10円は現在の6千円ほどの価値ですあるため、1円は600円くらい、単純に計算をしてみると、賞金はおよそ3百万円くらいとなる。
 当選に伴い、同.10.9 神奈川県は小尾を建築技手として招聘・採用し、県庁舎建築事務所に配属した。しかし、翌年'27.1.15付で神奈川県をわずか三か月で退職し、松坂屋臨時建築部に入る。'28.11.1(S3)神奈川県庁は落成・開庁式が挙行された。この時の神奈川県知事は池田宏(2-1-2-5)であった。開庁式に設計者の小尾は呼ばれていない。
 その後の小尾は、'29.12 上野店の完成と共に松坂屋を退職し、明けて '30.1 吉祥寺の自宅敷地内に設計事務所を開設「小尾建築工房」と名付けた。'30.9 昭和天皇の即位の礼を記念する事業の一環として「軍人会館」が建造されるにあたり、軍人会館建築設計図案懸賞募集が発表され応募。応募総数は323件、同年末に結果が発表され、一等は小野武雄、小尾は佳作に入選した。入賞賞金は500円。単純に現在の価格価値に置き換えるとおおむね30万円です。軍人会館は戦後「九段会館」と名前を変えて運営されていたが、東日本大震災での天井崩落事故が起き、2011 廃業。
 '42 戦後GHQにより解散命令を受けるまで、日本住宅営団東京支所第三課長を勤めた。戦後は、東京復興産業(株)建築部長をつとめ、'49 から小尾建築工務所を開設した。'53 山梨県甲府市丸の内の舞鶴城内にある恩賜林記念館の建築設計を手掛けている。享年76歳。

<「建築家・小尾嘉郎の経歴と建築活動に関する研究」佐藤嘉明など>


*墓石は神奈川県庁舎を模したデザインの墓石。右面「昭和八年七月 小尾嘉郎 建之」。妻は とき(1990.2.2歿)。

*長男の小尾欣一(1937生)は光化学とレーザー化学の分野で世界的に高い業績をあげた物理化学者で東京工業大学名誉教授。


《神奈川県庁本庁舎》
神奈川県横浜市中区日本大通1
昭和3年完成
施行:大林組 鉄骨鉄筋
コンクリート造り5階建て地下1階公募による東京市の技手、小尾嘉郎の設計案をもとにした。 基本的にはクラシック様式を踏まえているが、定冠様式と呼ばれる日本的意匠を加味した公共建築の先駆けとなった。 キングの塔。

神奈川県庁本庁舎



第374回 お墓もキング塔 神奈川県庁舎設計者 小尾嘉郎 お墓ツアー


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