北海道小樽出身。祖父は小樽の漁業家・政治家の金子元三郎(同墓)。大蔵官僚の金子隆三、美代子(共に同墓)の二男として生まれる。
東京高師附属中学校を経て、1938.4.1(S13)海軍兵学校に入校し、'41.3.25 在学期間3年で卒業(69期)して海軍少尉候補生となる。次いで飛行学生(37期)として修了し優秀な士官パイロットになった。同.11.1 少尉に任官、'42.11.1 中尉となり、太平洋戦争における戦闘機の搭乗員として中国大陸に出征。
'43.11.15 第341航空隊に配属される。この隊は乗り慣れた「零戦」から、強力なエンジンによる小気味よい加速と、無理な操縦にもビクともしない頑丈な機体や、めずらしい自動空戦フラップなどに新時代の戦闘機らしい魅力をもった新機種の戦闘機「紫電」で編成されることになった。司令は小笠原章一中佐(のちに舟木忠夫中佐)、飛行隊長はエースパイロットであった白根斐夫大尉だった。'44.3.1 戦闘第401飛行隊の「紫電」分隊長に就任した。
紫電隊は台湾で勇戦を繰り広げ、沖縄およびフィリピン基地を発進。同.3.15 大尉に進む。同.6.14 たまたま零戦の空輸のために硫黄島に立ち寄る。翌日、空襲に遭い、邀撃にあがったまま硫黄島上空での空戦で戦死。日夜訓練を重ねてきた新鋭「紫電」に搭乗しての戦闘ではなく「零戦」での戦死は無念であったに違いない。享年24歳六か月。没後、海軍少佐に特進した。
結婚して一年も満たない新婚での戦死であり、新妻の手元には、戦死した夫が風防ガラスの破片に彫った「紫電」のペンダントが残されたという。共に闘ったエースパイロットの白根中佐(戦死後特進)の妻のゆき子は、元威の新妻と女子学習院で同級生であり、ゆき子の兄の森井宏少佐は元威と海軍兵学校で同期であった縁がある。若くして未亡人になった二人は戦後、美術学校に進み、共に画を学んだとされる。元威の新妻は子もまだいなかったこともあり離籍したと思われる。
*正面墓石は和型「金子家之墓」、裏面「昭和二十七年八月 金子隆三 建之」。墓所右手側には墓誌が建ち、隆三の二男で戦死した金子元威から刻みが始まる。元威には「海軍少佐」と刻む。次は金子元三郎で「元貴族院議員」と刻む。次は元三郎の娘の金子美代子で「金子隆三妻」と刻む。その後に「昭和三十二年七月先祖徳善院殿より五代目徳樹院殿まで及び金泉家先祖両霊等十四霊を小樽墓地より改葬埋骨し畢ぬ」と刻む。なお墓誌はその後、10才で亡くなった金子三郎長男の金子光正、元三郎の妻の金子太津子、金子隆三には「元朝鮮殖産銀行副頭取」、金子三郎の妻の金子直子、金子三郎(T11.7-H22.11.17)には「元第一火災海上保険相互会社社長」と刻む。
*墓所左手側には和型「金子隆哉家之墓」、裏面「昭和四十八年十一月 金子龍太 建之」。右面が墓誌となっており、金子隆三の4男の金子隆哉、妻の金子香代子(H23.10.13歿)が刻む。隆哉は45歳の若さでくも膜下出血にて急逝(T15.3-S47.1.27)。有能な社員であり社葬で報いた。隆哉の妻の金子香代子は「金子香代」の名義で伝記的エッセイ『没落家族のゴールデン・デイズ』(2006)を刊行。「波濤短歌会」の第一同人、「日本歌人クラブ」会員、またエッセイでは世田谷文学賞(随筆)3年連続受賞した。他にも毎日新聞や北海道新聞でも受賞している文筆家である。