越後国三島郡寺泊町(新潟県長岡市)出身。幼少期に北海道松原の富豪、先代 金子元三郎の養子となり、養父と共に小樽に移り、漁業家として海陸物産商として活動し、養父没後に二代目を襲名した。
東京に遊学し、政界の黒幕と頭山満の門に出入りし井上角五郎らと親しんだ。漁業、海運業、海陸産物販売業に敏腕をふるい資産をなすとともに、政界へ志す。1891(M24)中江兆民をして「北門新報」を発刊させたのもそのためであり、自由民権を唱道した。
1900 小樽区初代区長に当選し、道路、水道、港湾、学校増築等に思い切った計画を発進させた。石川県出身の元代議士の遠藤秀景に誘われ、1902.8.10 第7回衆議院議員総選挙に金沢市選挙区より出馬したが落選。'04.3.1 第9回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区選出に無所属で出馬し激しい選挙戦を勝ち抜き初当選。その後、'15.3.25(T4)第12回衆議院議員総選挙では大隈重信内閣支持の無所属議員らと合同した大隈伯後援会(公友倶楽部)で返り咲き当選。'17.4.20 第13回衆議院議員総選挙では憲政会公認で当選(通算当選3回)した。しかし、同.10.13 衆議院議員選挙法違反事件について札幌地方裁判所での裁判判定により議員辞職。'25.9(T14)からは貴族院議員に移り多額納税者議員として復活し研究会に属した(〜'39.9)。
実業家としては水産業、海運業、農牧場などを経営の他に、豊山銀行頭取、丁酉銀行頭取、金子(資)社長、定山渓鉄道、合同漁業、北海道造林などの社長を務めた。生活振りは派手で邸宅は「御殿」とよばれた。享年83歳。
*正面墓石は和型「金子家之墓」、裏面「昭和二十七年八月 金子隆三 建之」。墓所右手側には墓誌が建ち、隆三の二男で戦死した金子元威から刻みが始まる。元威には「海軍少佐」と刻む。次は金子元三郎で「元貴族院議員」と刻む。次は元三郎の娘の金子美代子で「金子隆三妻」と刻む。その後に「昭和三十二年七月先祖徳善院殿より五代目徳樹院殿まで及び金泉家先祖両霊等十四霊を小樽墓地より改葬埋骨し畢ぬ」と刻む。なお墓誌はその後、10才で亡くなった金子三郎長男の金子光正、元三郎の妻の金子太津子、金子隆三には「元朝鮮殖産銀行副頭取」、金子三郎の妻の金子直子、金子三郎(T11.7-H22.11.17)には「元第一火災海上保険相互会社社長」と刻む。
*墓所左手側には和型「金子隆哉家之墓」、裏面「昭和四十八年十一月 金子龍太 建之」。右面が墓誌となっており、金子隆三の4男の金子隆哉、妻の金子香代子(H23.10.13歿)が刻む。隆哉は45歳の若さでくも膜下出血にて急逝(T15.3-S47.1.27)。有能な社員であり社葬で報いた。隆哉の妻の金子香代子は「金子香代」の名義で伝記的エッセイ『没落家族のゴールデン・デイズ』(2006)を刊行。「波濤短歌会」の第一同人、「日本歌人クラブ」会員、またエッセイでは世田谷文学賞(随筆)3年連続受賞した。他にも毎日新聞や北海道新聞でも受賞している文筆家である。
*妻の太津子(タツ:M13.7-S47.11.28)は男爵の園田安賢の長女。元三郎と太津子の娘の美代子(M22.10-S29.11.8)と隆三が結婚し婿養子として迎えた。隆三は大蔵官僚・政治家の土屋大次郎の子で、第一ホテルの創業者の土屋計左右の兄にあたる。なお、土屋計左右の長男の土屋計雄(16-1-1)は日本ホテル協会会長を務めた人物。