神奈川県出身。大蔵官僚・政治家の土屋大次郎の三男として生まれる。長兄は家業の石材商を継ぎ帝国石材取締役の土屋康二。次兄は大蔵官僚の金子隆三(10-1-10)で政治家の金子元三郎(10-1-10)の養子となった。
府立第一中学校を経て、1912(M45)官立東京高等商業学校(東京商科大学:一橋大学)卒業。三井銀行に入行。後に三井銀行上海支店長、三井銀行外国営業部長を務めた。三井銀行を辞して欧米各国を巡歴。
'36(S11)鈴木三栄の特殊会社の常務理事に就任。同年、遠縁の子爵の岩下家一より、東京で開催予定の第12回オリンピック大会(1940東京五輪:中止)に備えて、新橋駅近くの土地を買いホテル事業を行うことを勧められる。阪急創業者の小林一三に助言をもらい、学生時代の同窓で鈴木商店(味の素)創業者の長男の3代目鈴木三郎助、三楽(メルシャン)社長の鈴木三千代、池貝鐵工所社長の池貝庄太郎、政治家の平沼亮三らの出資を得て、資本金130万円で、'37.1.9 設立して取締役となる。設計施行は清水組によるもので、鉄筋コンクリート構造、地上8階、地下1階建ての当時の最新式の高級ホテルを建設。
'38.4.29 東京新橋に「第一ホテル」として開業。虚飾を排したスマートな外観が話題を呼び、和風客室12室を含む626室の規模は「東洋一の客室数」と称された。また全館冷暖房完備、エレベーター、最新の厨房設備を持つレストランや喫茶店も備え、戦前において、日比谷の帝国ホテルや赤坂の山王ホテルと並び、東京を代表する近代的高級ホテルとして知られた。
'40 社長に就任。しかし、太平洋戦後は日本を占領した連合国軍GHQに接収された。高級将校の宿舎や東京裁判で来日したアメリカ弁護人の宿泊地として活用される。'52 サンフランシスコ講和条約で日本の独立が回復されたが、すぐに返還されず、4年後、'56.8.31 進駐軍の接収解除がようやく出て、第一ホテルは返還された。
返還後は早急に整えホテルの営業を再開。'60 隣接地に新たなホテル(新橋第一ホテル新館)を増築開業した。'61 藍綬褒賞。'66 社長を長男の土屋計雄(同墓)に譲り、会長に就任。'68.8.1 山王ホテルを吸収合併。'70 相談役に退く。享年85歳。社葬が執り行われた。
*墓石は和型「土屋家之墓」、裏面「昭和廿五年十月十六日 土屋計左右建之 西川寧書丹」と刻む。右側に墓誌が建つ。土屋計左右の戒名は誠信院晃堂俊英大居士。妻は冨美子(1899.8-1974.1.24)、戒名は妙證院計室貞冨清大姉。冨美子は男爵の園田安賢の二女。長男は父の後を継いで第一ホテル社長を務めた土屋計雄(戒名は刻まれていない)。二男の土屋晃雄(1924.3-2010.5.29:戒名は刻まれていない)は第一ホテル不動産取締役や第一ホテルエンタープライズ監査役を務めた。三男は土屋英雄(1925.7-1946.10.16:戒名は徹心院英山道雄居士:墓誌の最初に刻む)。
*土屋計雄の妻の喜久子は第一銀行頭取を務めた明石照男の三女。明石照男の妻の愛子の父は渋沢栄一。長女の典子は外交官の河野雅治に嫁ぐ。二女の幸子は昭和天皇の孫にあたる壬生基博に嫁いだ。基博の実父は東久邇盛厚、養父は伯爵議員の壬生基泰。基泰の父は公家の伯爵の壬生基義(21-1-12-10)である。
【その後の第一ホテル】
当時の最新鋭も時代遅れとなり、老朽化も出てきたため、1989.7.1(H1)内幸町に完成した東京生命本社ビルに「第一ホテルアネックス」を開業させると共に、新橋第一ホテル本館を閉鎖した。次いで、1992.12.1(H4) 新橋第一ホテル新館も閉鎖し、新橋における第一ホテルは54年間の歴史に幕を閉じた。なお、跡地には地上21階、地下3階建ての「第一ホテル東京」を再開業(1993.4.21)。
「第一ホテル」のブランドで全国にチェーン展開、海外にも進出、マンション事業も展開していたが、2000.4(H12)株式会社第一ホテルは、3月期決算で230億円の債務超過をし、銀行からも融資を取り付けられず資金繰りに行き詰まり、同.5.26 会社更生法の適用を申請、負債総額1152億円で経営破綻した。その後は阪急電鉄が子会社として出資し、2002.4.1 阪急電鉄傘下の阪急ホテルズに吸収合併させ「第一阪急ホテルズ」となった。
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