高橋是清(同墓)の二男として生れる。 横浜商業学校を卒業して三井物産会社に勤めたが、のち米国に渡り実業界を視察して帰り、日本酸素会社を創設して兄の高橋是賢(9-1-2)とともに取締役となり、1930(S5)には株式会社帝都座を創設して社長となり、日本火薬製造会社の重役をも兼ねた。享年55歳。
<日本人名大事典><平成新修旧華族家系大成><五輪塔様より情報提供><徳川葵様より情報提供><もへい様より情報提供>
*『日本人名大事典』では「たかはし これとみ」となっている。 *墓碑は二基並んでおり、右の墓碑に「泰徳院殿賢量是福居士」と妻の多美の戒名と連名で刻む。左面に建立者の高橋福一の名が刻む。 *長女の福子は、伊藤博文の孫で公爵の伊藤博精に嫁いだ。なお、伊藤博精と福子の娘の文子は出雲国造家の千家達彦に嫁いでいる。 *釣が趣味であり、'26.6.15(T15)東京放送局ラジオにて「趣味の釣魚」と題し語っている。 ラジオで語られた湯川の鱒釣の内容が、'28(S3)雑誌『釣の研究』9月号、10月号、11月号と三回に分けて連載された。
高橋是清、 高橋是賢、 高橋豊二