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たかはし これよし

高橋是福

たかはし これよし

1881.6(明治14)〜 1935.1.30(昭和10)

明治・大正・昭和期の実業家

埋葬場所: 6区 1種 1側

 東京出身。首相・大蔵大臣の高橋是清(8-1-2-16)の二男として生れる。兄は子爵の高橋是賢(9-1-1)。甥にベルリンオリンピックのサッカー日本代表メンバー高橋豊二(9-1-1)がいる。1913(T2)分家。
 横浜商業学校を卒業。渡米し、ニューヨークに於いて実業の研究視察をした。帰国し、三井物産会社に入社。'18(T7)日本酸素株式会社を創設して兄の高橋是賢(9-1-2)とともに専務取締役となる。'30(S5)株式会社帝都座を創設して社長に就任。銀座興業代表取締役や、日本火薬製造会社の重役も兼ねた。
 釣が趣味であり、'26.6.15(T15)東京放送局ラジオにて「趣味の釣魚」と題し語っている。ラジオで語られた湯川の鱒釣の内容が、'28(S3)雑誌『釣の研究』9月号、10月号、11月号と三回に分けて連載された。享年53歳。

<20世紀日本人名事典>
<大日本人物史>
<平成新修旧華族家系大成>
<人事興信録>
<五輪塔様より情報提供>
<徳川葵様より情報提供>
<もへい様より情報提供>


墓所 たかはし これよし

*『日本人名大事典』や『人事興信録』などの人名事典ではヨミを「たかはし これとみ」と紹介している。

*墓所には4基。墓所左に和型「髙橋家先祖代々之霊位」、それを挟んで右に高橋是福の戒名「泰德院殿賢量是福居士」と妻の多美の戒名「泰倫院殿貞良多美大姉」が刻む。右面に是福と多美(M14.8-S27.6.24)の歿年月日と俗名が刻む。多美は東京出身で貿易商の守安瀧三郎の二女。兄の守安瀧次郎は横浜正金銀行の銀行家で、その長男で甥にあたるのがジャズ・ピアニストの守安祥太郎。左面は「昭和十一年四月吉祥日 高橋祐一」と刻む。並んで左側は和型「髙橋家 / 吉川家 之墓」が建つ。元々は「髙橋家之墓」であったが平成後期に変わった。左右面は墓誌となっており、右面は長男の高橋祐一(T3.11-H13.1.13)。祐一の妻は冨美枝(H22.11.27・行年91才)。左面は吉川進(H27.4.28・行年68才)と生後十日で早死した吉川健が刻む。墓所正面に小さな和型の観音墓石が建つ。右が三女の和子(T8.10.1歿)の墓石、左が六女の正子(T11.6-S13.6.7)の墓石が建つ。

*高橋是福と多美の間に3男7女を儲ける。長男は高橋祐一(同墓)。長女の恭子(M35.9生)は名倉謙蔵の長男で医学博士の名倉重雄に嫁ぐ。二女の福子(M37.2生)は伊藤博文の孫、伊藤博邦の長男、公爵の伊藤博精に嫁ぐ。博精と福子の娘の文子は出雲国造家の千家達彦に嫁いでいる。三女の和子(同墓)。四女は元子(M43.2生)。二男は良二(T7.10生)。五女は立子(T10.8生)。六女は正子(同墓)。三男は俊夫(S7生)。七女は光子(S8生)。


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