東京成城出身。祖父は高橋是清(8-1-2-16)。実業家で子爵の高橋是賢・愛子(共に同墓)の次男。東京帝国大学でサッカー選手として活躍。チームメイトからは是清の孫であったので、愛称は「マゴ」であった。
1936.1.29(S11)大日本蹴球協会は第11回ベルリンオリンピックからサッカーが正式競技として復活するためアジアから参加要請を受けたため、それに向けて代表選考会を行い25名の候補者を推薦し、豊二がFWとして選ばれた。
同年2.26事件が起こり是清が暗殺され、蹴球協会が一時混乱するも、豊二は日本代表最終選考16名にも残り、日本代表として選ばれた。
この代表選考は関西の大学からは一名も選出されず、日本統治下にあった朝鮮地方からはたった一名、強豪慶応大学からも一名であり、代表メンバーはほぼ早稲田大学(10名)という偏ったチームで、政治がらみや人種的偏見だと物議をかもし出した。
なお、豊二の東京帝国大学からは三名、他に東京高等師範から一名選ばれている。
同年8月3日ベルリンオリンピックにおけるサッカー競技が開幕された。参加国は16ヶ国(アジアからは日本と中華民国)によるノックアウト方式のトーナメントである。
翌日、1回戦として日本対スウェーデンの試合がヘルタープラッツ・スタジアムにて開催された。日本はオリンピックのサッカー競技初参加国であり、対するスウェーデンはドイツ・イタリアと並ぶ優勝候補であった。
前半は0−2でスウェーデンが圧倒していたが、後半、日本チームのシュートパスを中心にした戦術が機能し始め、立て続けに3得点を取り、逆転勝ちをおさめた。
これは「ベルリンの奇跡」と称される。なお、豊二はスウェーデン戦では出場していない。次の準々決勝では今大会で金メダルを獲得するイタリアと対戦し、8−0で大敗するも、無名国日本チームはヨーロッパに大きな衝撃を与えた大会となった。
その後の豊二は、東京帝国大学を卒業し、海軍航空学校の予備航空学生となる。'40館山航空隊で訓練中に殉職。享年26歳。戒名は翔翔院環山道豊居士。
【ベルリンオリンピック日本代表メンバー】
鈴木重義(監督) 工藤孝一(コーチ) 竹腰重丸(コーチ) 小野卓爾(マネージャー)
ゴールキーパー :佐野理平(早稲田)、不破整(早稲田高)
フルバック :鈴木保男(早稲田)、竹内悌三(東大)、堀江忠男(早稲田)
ハーフバック:金容植(京城普成)、笹野積次(早稲田)、立原元夫(早稲田)、種田孝一(東大)
フォワード:右近徳太郎(慶應)、加茂健(早稲田)、加茂正五(早稲田)、川本泰三(早稲田)、高橋豊二(東大)、松永行(東京高等師範)、西邑昌一(早稲田)
*豊二の祖父の高橋是清の墓所(8区1種2側16番)は管理事務所で配られている案内でも有名であるが、高橋家先祖代々墓はここの9区1種1側の墓所である。「高橋家先祖代々墓」は五輪塔が建ち、裏の台座に「昭和十六年十二月 子爵 是賢 建之」と刻む。右側に高橋家墓誌が建つ。先に高橋是清墓が建ち、代々墓はその5年後に建てたことがわかる。豊二の戒名は(皋羽)翔院環山道豊居士。祖父の是清の戒名は報國院殿仁翁是清大居士。父の是賢の戒名は大乗院春喜是賢居士。母の愛子(1888.12-1971.7.24:本乗院賢窓慈愛大姉)の父は黒木為楨とヒヤク(共に8-1-2-15)の二女であるため、日露戦争で武勲をあげた黒木為楨は母方祖父にあたる。叔父に実業家の高橋是福(6-1-1)。伊藤博文の孫の伊藤博精に嫁いだ福子(是福次女)はいとこ。
*是賢と愛子は3男4女を儲ける。長兄は賢一(1914.3-1999:同墓:墓誌に刻みがない)。賢一の妻は美千代(大日本体育協会理事の牧田清之助の長女)。賢一は東京帝国大学農学部卒業、陸軍獣医少尉を経て農林省で官僚を務めたのち北海道議会議員となり議長も務めた。他方で是清が北海道伊達市に創業した高橋農場の3代目場主として農場をサラブレッド競走馬の牧場に転換し、1977(S52)東京優駿(日本ダービー)優勝馬のラッキールーラなどを生産した。なお8区の高橋是清の墓と、9区の高橋家の墓の二ヶ所とも、賢一が亡くなるまで墓所管理者を務めた。姉(長女)の慶子(1911.3.19歿・行年1才:同墓)は早死。姉(二女)の照(1912.12-)は東成行に嫁いだ。妹(三女)の艶(1916 T5.12-1940.1.5・行年25才:同墓)。弟の康三(1919 T8.11-1944.12.27・行年25才:同墓)。妹(四女)の多惠(1921.10-)は横浜正金銀行の小野八寿雄に嫁いだ。
※(皋羽)は「皋」に「羽」を合わせた一文字。
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