薩摩国鹿児島城下加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)出身。薩摩藩士の帖佐為右衛門の三男。幼名は三次。同藩士で加治屋町の黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。通称は七左衛門。加治屋町からは2歳上の大山巌、1歳上に西郷従道(10-1-1-1)、3歳下の東郷平八郎(7-特-1-1)、他にも大久保利通、西郷隆盛らを輩出した町である。特に少年時代は東郷や伊地知休八(後の海軍大佐の伊地知弘一)らと河原で相撲をするなど遊び相手であった。
21歳の時に薩摩藩小銃四番隊に属し京都御守衛に当たっていたところ、1868(慶応4.1.3)激発した鳥羽・伏見の戦いに遭遇。薩摩藩の小銃隊を指揮して活躍した。以来、戊辰戦争に従軍。宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付くなど奮戦し勝利の契機をつくった。1869.2(M2)1番大隊小隊長となる。維新後陸軍に入り、1871.7.25新政府より歩兵大尉任官。薩摩・長州・土佐藩士によって編成された御親兵の小隊長となった。1972少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に着任。近衛歩兵第2大隊長を経て、1875中佐に進級し、広島鎮台歩兵第12連隊長となった。
1877四国丸亀歩兵第12連隊長の時に、地元加治屋町の先輩である西郷隆盛らによって西南戦争が起こる。西郷と行動を共にする仲間もいる中で、黒木は新政府の陸軍軍人たる道を選び従軍。島津久光・忠義父子へ下された勅使柳原前光を護衛し鹿児島錦江湾へ赴き、更に別働第一旅団に属し各地に奮戦。この功により勲4等を叙せられた。
1878.12.2大佐となり、1879.1.4近衛歩兵第2連隊長に転じ、1882.2.8中部監軍部参謀、1883.2.6参謀本部管東局長を歴任。1885.5.21少将に昇進し歩兵第5旅団長、1890.7.25近衛歩兵第2旅団長を務めた。1893.11.10中将に累進し第6師団長に就任。日清戦争が勃発するや、1895.1.1師団を率いて熊本を発進、威海衛の占領の功をたて、同.8.20男爵を叙爵し華族に列せられた。1896.10.14近衛師団長に親補され、1897.10.27西部都督に転じた。1903.1.13中部都督事務取扱、同.11.3大将に昇格した。
'04.1.14軍事参議官、同.2.5日露戦争では第1軍司令官として出征。日本軍は第一軍が黒木、第二軍が奥保鞏、第三軍が乃木希典、第四軍が野津道貫で、総軍司令部の長官が大山巌、総参謀長が児玉源太郎(8-1-17-1)であった。黒木の第一軍は鴨緑江を渡って九連城を占領、この緒戦の快勝をきいて全軍奮い立った。黒木の作戦は、飽くまで剛直。第一軍の将兵も司令官の気質に感化されたように、ひるむことなく果敢放胆に進撃、敵陣を次々と突破した。遼陽、沙河、奉天会戦と連戦連勝。黒木の名は従軍記者によって世界に伝えられ、諸外国から「ゼネラル・クロキ」と勇名を馳せた。
'06.1.12軍事参議官、'07米国出張、同.9.21軍功により伯爵、功一級を授けられた。'09.3.16後備役に編入。'14(T3)退役。
薩摩武士らしい豪傑肌の性格で、正規の軍事教育を受けずにして、弱冠21歳で鳥羽伏見の戦争の洗礼を受けて以来、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人、野戦指揮官としての長年の経験と勘を生かした優れた采配を見せ、ロシアの大軍団と対決し、日露開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕によるところが大きい。これらの武勲からして誰もが元帥になるものだと見ていたが、現場指揮官の地位を好んだことや、長州閥全盛期な上、あまりにも剛直な性格を煙たがれたこともあり元帥に昇れず、65歳の官限年齢により後備に退けられた。
'17.4.27(T6)から亡くなるまで枢密顧問官に任ぜられた。肺炎のため逝去。享年78歳。正2位 勲1等、功1級。没後従1位追贈。
<コンサイス日本人名事典> <帝国陸軍将軍総覧> <人事興信録>
第195回 日露戦争の名将 ゼネラルクロキ 最強軍人 黒木為楨 お墓ツアー 黒木家3部作 その1
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