薩摩国出身。旗本の中山勝重の二女。旧姓は中山、黒田。旧名は百(百子:ももこ)。姉の清(1854-1878)は後に伯爵・第2代内閣総理大臣を務めることになる黒田清隆に嫁ぐ。結婚当初の夫婦仲は円満で1男1女を儲けたが子どもたちは早死。そこで清の妹のヒヤクを養女として黒田家に迎えた。1878.3.28(M11)姉の清が亡くなる。夫の黒田清隆が惨殺したという憶測が流れたが無罪放免となる。黒田清隆没後にヒヤクが目撃談を新聞社に語るが記事は取り下げられている(詳細は後述)。陸軍大将・伯爵の黒木為楨(同墓)の三番目の後妻となり三男二女を儲けた(詳細は後述)。
その後、陸海軍将校婦人会会長、日本赤十字社篤志看護婦人会副会長、愛国婦人会評議員、東洋婦人教育会評議員、少年保護婦人協会理事、大日本航空婦人会顧問などを歴任した。勲4等。享年93歳。
【黒田清隆の妻斬殺事件】
ヒヤクの実姉の清は、1869.11.22 黒田清隆(29才)に数え16才の時に嫁いだ。
西南戦争が終結した翌年、1878.3.28(M11)黒田清隆の妻の清が肺を患い亡くなった。手厚い看病の甲斐なく亡くなってしまったと葬儀があげられた。しかし、團團珍聞という新聞に、酒に酔って帰った黒田が出迎えが遅いと逆上し妻の清を斬り殺したという記事が出て世間を騒がした。
「妻を殺した」ことが公になり、黒田は大久保利通に官吏の辞表を提出したが慰留され、説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた。なお、黒田、大久保、川路は薩摩出身であり、川路は警察制度を確立した功績から「日本の警察の父」と称される人物である。
「酒さえ呑まなければ良い人なんだけどね」と、黒田の酒癖の悪さは周知の事実であり、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であった。過去にも問題を起こしており、開拓長官時代には商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲を面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがある。これは示談金を払って解決した。
黒田の妻の斬殺は、大久保の露骨な隠ぺい工作により秘密裏に処理され無罪放免となるが、近い人たちの間では公然の秘密で、明治天皇の耳にも達して一時遠ざけられた。
当時の刑法の「新律綱領」には、夫が妻の他に妾を囲うことを許していた(一夫多妻が暗黙で認められていた)一方、妻は不倫した場合は夫が自由に処罰してよいということになっていた。また妻が夫を殴った場合は鞭打ち百回の刑罰が科せられ、夫が妻を殴る場合は何の罪にも問われなかった。幕末明治期は完全な男尊女卑であり、この価値観が一般的であった。
この事件の同年に大久保は暗殺される。黒田は函館戦争や西南戦争で武勲をあげ明治維新の立役者であり、西郷隆盛と大久保利通を失った薩摩藩閥の重鎮として活動。時代のお陰もあり首相も経験し、枢密院議長となるが、晩年は醜聞と疑獄事件で浮いた存在となり、同郷の人たちは離れていった。函館戦争での敵であった榎本武揚の絆だけは強く、黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めた。
黒田没後、1911.10.19(M43)報知新聞に大久保の部下であった千坂高雅のインタビュー記事が掲載された。当時、千坂は清の妹(ヒヤク)から聞いた話として、黒田による殺人であったと断言している。ところが、同.10.27 記者の筆記に誤りがあったと全文取り下げられた。同.11.26 貴族院議員の小牧昌業が「大久保はよく人に調べさせて、証拠を持った上で弁護されたのだ」と擁護する記事が掲載された。
なお黒田は41歳の時に材木商丸山伝右衛門の娘の滝子と再婚。娘の梅子、竹子、清仲を授かる。梅子は榎本武揚の長男の武憲と、竹子は伊地知貞馨の孫の貞一に嫁いだ。黒田没後、黒田清仲が家督を継いだが、32歳の若さで亡くなり嫡子もなかったため、ヒヤクの孫(黒木為楨とヒヤクの長男の三次の二男)の清が黒田家の養嗣子となり後を継いだ。
【事件をすっぱ抜いた團團珍聞(まるまるちんぶん)】
1877.2.25(M10)野村文夫が『團團社』を起こし、翌月に「團團珍聞」(マルチン)を創刊。週刊の戯画入り時局風刺雑誌であり、社説を茶説・洒蛙説(しゃあせつ)とモジり、狂句・狂歌・風刺戯画で藩閥政府を皮肉り、自由民権運動の機運をあおるなど人気を博した。創刊した年は年間15万部を売り好評。しかし、翌年に黒田清隆の妻惨殺の偽りを流布したということで、大久保利通の圧力により、1878.4.13 発行停止となった。
弾圧の対抗策として同年10月より驥尾団子(きびだんご)誌も出し並行してめげずに発行し続け、頻繁に罰金・禁獄・発行停止などの処分を受けながらも、1880年は年間約26万部を売った。
1883 驥尾団子は政府の新聞紙条例改訂のため廃刊に追い込まれ、野村没後は経営者が様々代わりながらも発行し続けていたが経営難もあり、1907.7.27付け第1654号までの発行として幕を閉じた。
第196回 黒田清隆の妻殺害事件に遭遇 黒木為楨の妻 黒木ヒヤク お墓ツアー 黒木家3部作 その2
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