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くろき じゅうたつ

黒木従達

くろき じゅうたつ

1917(大正6)〜 1983.1.19(昭和58)

昭和期の宮内庁官吏、東宮侍従

埋葬場所: 8区 1種 2側 15番

 父は侯爵の西郷従徳、母は公爵の岩倉具定の二女の豊子(共に10-1-1-1)の六男として生まれる。兄は陸軍大佐の西郷従吾(10-1-1-1)。黒木三次(同墓)の養子。
 三菱重工業に務め、1943(S19)宮内庁に入り、明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)が11歳の時から、傅育官として仕える。以来、東宮御所で共にした。'45伯爵襲爵したが戦後華族制度が廃止となる。'52明仁親王による「銀ブラ事件」が起こる(詳しくは千家崇彦の頁へ)。
 '61東宮侍従となる。明仁親王の皇太子妃の民間妃選考を極秘作業を進めていた一員。これに携った人物は他に、宇佐美毅宮内庁長官、東宮参与小泉信三(3-1-17-3)、田島道治前宮内庁長官、鈴木菊男東宮大夫。古い皇室典範では、皇族の結婚は皇族または華族に限るという規定があったが、新憲法により貴族制度は廃止され法的制限はなくなった。しかし選考は常識的に旧来の範囲から始められた。なかなか理想的な方が見つからない状況であり、常識の枠を越すと正田美智子がひときわ群を抜いており、ここに初めて民間から皇族に嫁ぐことになる。このように皇太子・美智子妃結婚において重役を果たした。上皇后美智子の祖父は日清製粉設立者の正田貞一郎(15-1-1-23)、父は日清製粉社長の正田英三郎(鎌倉霊園)、伯父は数学者の正田建次郎(15-1-1-23)。
 '77.4.12東宮侍従長に就任。'83在任中、昼休みに新宿のトルコ風呂に行き心臓発作を起こして急逝。享年65歳。宮内庁は事実の隠ぺいを図るために事故死として処理をしたが、「東宮侍従長腹上死事件」として週刊誌は大々的に報道し騒動となった。小林侍従の1983年1月20日の日記にはこう記されている。「昨夕、黒木東宮侍従長、新宿外出先で急逝、心臓発作という。65歳。新宿のトルコ浴場に、検診に行きつけの検査所からの帰りに4時ころ行って、そこで倒れたという。場所が場所だけに工合が悪い」。名誉のためにも「豪放磊落(ごうほうらいらく)な人」であったとしたい。

<人事興信録>
<現代物故者事典>
<『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋 小林忍+共同通信取材班/著>


墓所
陸軍大将伯爵黒木為亙 黒木家墓誌

*墓所には二基。入口左手側に和型「陸軍大将伯爵黒木為亙茵廖⇔¬漫崑臉欺銃麈二月四日薨」。入口正面に和型「黒木家之墓」。入口右手側に「黒木家墓誌」が建ち、黒木三次、黒木ヒヤク、黒木従達、黒木不二、黒木順子、黒木為政が刻む。

*養父母の黒木三次と竹子は子に恵まれなかったため、黒木家の養嗣子となる。妻は樋口元周の三女の不二(1923-1989.7.12:同墓)。従達の長男の黒木為政(1949-2020:同墓)は富士通パーソナルズ顧問・監査役などを務めた。為政の妻の順子(H28歿)も同墓に眠っている。従達の長女の斉子は日産自動車の永積靖夫に嫁いだ。

*養祖父母の為呂肇劵筌の間には3男2女の子がいる。長女のツネ(1877.4-)は熱帯産業社長の川田鷹に嫁ぐ。川田鷹の父は儒者・漢学者の川田甕江。長男は伯爵を継ぎ貴族院議員として活動した黒木三次(1884.12.21-1944.9.30:同墓)。三次の妻は公爵の松方巌(松方正義の嫡男)の長女の竹子(墓誌に刻みがない)。二男は早死。三男の清は伯爵の黒田清仲(1884-1915)の養嗣子となる。黒田清仲の実父は黒田清隆であり、ヒヤクはその養女であるため血のつながらない弟。黒田清(1893-1951)は伯爵を継ぎ貴族院議員を務めた。二女の愛子(1888.12-1971.7.24:9-1-1)は高橋是清(8-1-2-16)の長男で子爵・実業家の高橋是賢(9-1-1)に嫁いだ。



第197回 死んではいけないところで亡くなってしまった
黒木三次 黒木従達 お墓ツアー 黒木家3部作 その3


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