父は侯爵の西郷従徳、母は公爵の岩倉具定の二女の豊子(共に10-1-1-1)の六男として生まれる。兄は陸軍大佐の西郷従吾(10-1-1-1)。黒木三次(同墓)の養子。
三菱重工業に務め、1943(S19)宮内庁に入り、明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)が11歳の時から、傅育官として仕える。以来、東宮御所で共にした。'45伯爵襲爵したが戦後華族制度が廃止となる。'52明仁親王による「銀ブラ事件」が起こる(詳しくは千家崇彦の頁へ)。
'61東宮侍従となる。明仁親王の皇太子妃の民間妃選考を極秘作業を進めていた一員。これに携った人物は他に、宇佐美毅宮内庁長官、東宮参与小泉信三(3-1-17-3)、田島道治前宮内庁長官、鈴木菊男東宮大夫。古い皇室典範では、皇族の結婚は皇族または華族に限るという規定があったが、新憲法により貴族制度は廃止され法的制限はなくなった。しかし選考は常識的に旧来の範囲から始められた。なかなか理想的な方が見つからない状況であり、常識の枠を越すと正田美智子がひときわ群を抜いており、ここに初めて民間から皇族に嫁ぐことになる。このように皇太子・美智子妃結婚において重役を果たした。上皇后美智子の祖父は日清製粉設立者の正田貞一郎(15-1-1-23)、父は日清製粉社長の正田英三郎(鎌倉霊園)、伯父は数学者の正田建次郎(15-1-1-23)。
'77.4.12東宮侍従長に就任。'83在任中、昼休みに新宿のトルコ風呂に行き心臓発作を起こして急逝。享年65歳。宮内庁は事実の隠ぺいを図るために事故死として処理をしたが、「東宮侍従長腹上死事件」として週刊誌は大々的に報道し騒動となった。小林侍従の1983年1月20日の日記にはこう記されている。「昨夕、黒木東宮侍従長、新宿外出先で急逝、心臓発作という。65歳。新宿のトルコ浴場に、検診に行きつけの検査所からの帰りに4時ころ行って、そこで倒れたという。場所が場所だけに工合が悪い」。名誉のためにも「豪放磊落(ごうほうらいらく)な人」であったとしたい。
<人事興信録> <現代物故者事典> <『昭和天皇 最後の侍従日記』文藝春秋 小林忍+共同通信取材班/著>
第197回 死んではいけないところで亡くなってしまった 黒木三次 黒木従達 お墓ツアー 黒木家3部作 その3
|