島根県大社町出身。祖父が80代出雲国造出雲大社大宮司・出雲大社教初代管長・男爵の千家尊福。父親は國學院大学教授で出雲大社管長を務めた千家尊宣(同墓)。兄に作家の千家紀彦(同墓)がいる。
1952(S27)学習院高等科の3年生の3学期の試験が終わった日、学友の明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)が「銀座に行きたい」と同じく学友の橋本明に相談し、もう一人誘おうと皇太子からご指名を受けた。三人で護衛の目を盗んで銀座に繰り出した(銀ブラ事件)。すぐに皇太子が行方不明になったと大騒動となり、警察が緊急配備、皇太子生涯ただ一度の小さな“冒険の旅”は終わる。千家と橋本は侍従たちから激しい叱責を受けたという。
'56学習院大学卒業。国策パルプに勤務した。享年73歳。
【銀ブラ事件】
1952(S27)明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)が学習院高等科の3年生の3学期の試験が終わった日、「銀座へ行きたい」と、そっと学友の橋本明に耳打ちした。
橋本明は大日本麦酒常務を務めた橋本卯太郎の孫で、元首相の橋本龍太郎や元高知県知事の橋本大二郎は父方の従弟であり、検事・橋本乾三の次男である。皇太子とは幼少からの仲で喧嘩をするくらい仲が良い間柄。後にジャーナリストとなる人物。
橋本は皇太子から銀座に行きたいと相談される。「いつ行きたい?」の問いに、皇太子は「今日行きたい」と言い、「いいよ。いいけど、一人じゃちょっと心もとないから、もう一人連れていこう。誰がいい?」の問いに、皇太子は「千家崇彦がいい」と、同じ学友であった千家崇彦を指名。3人で銀座に繰り出すこととなった。
まず、橋本が新任の東宮侍従の浜尾実に「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」と騙し、夜の7時頃に寮を抜け出した。「電車に乗ってみたい」という皇太子のご希望に、目白駅で二十円の切符を三枚買い、皇太子自ら切符を改札口で切らせて3人は山手線の内回り電車に乗った。
車内はかなり混んでいて座れなかった。扉の前の銀色の柱を背に皇太子はニコニコして嬉しそうだった。新橋駅で下車し、一行は徒歩で銀ブラをした。このとき、銀座4丁目あたりですれ違った4人ほどの慶応ボーイが、「殿下、こんばんは」と皇太子に挨拶してきたという。
その後、一行は高級喫茶の「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合って、1杯99円のコーヒーを飲んだ。店主に皇太子と素性がバレたため、洋菓子屋の「コロンバン」に店を替え、そこでアップルパイと紅茶を楽しんだ。
しかし、この時、東宮職も警備の警察も、皇太子が行方不明になったというので、上を下への大騒ぎになっており、多くの目撃談から場所はすぐに突き止められ、警察が20〜30メートルごとに警官を緊急配備したことで、銀ブラを続けることができなくなり、皇太子生涯ただ一度の、小さな“冒険の旅”は終わった。
もちろん、橋本と千家は、警察や東宮大夫からこっぴどくお目玉を食らったのは言うまでもない。皇太子はその後、周囲に迷惑を及ぼすような行動は慎まれた。
なお、この銀ブラ事件をおこした年の11月10日、皇太子明仁新王の成年式および立太子の礼が皇居仮宮殿で行われ、皇太子として内外に対する公式の地位に立たれることとなった。
翌年にはロンドンで行われた英女王エリザベス2世の戴冠式に天皇陛下(昭和天皇)のご名代として参列され、半年かけて米国や西欧各国を親善訪問する外遊を行った。よって、以降、単独判断で行動することはなく、この銀ブラ事件は、最初で最後の独自判断での行動となった伝説の事件である。
<図説 皇室のすべて> <10大ニュースにみる戦後50年> <森光俊様より情報提供>
*当時のコロンバンの店主は門倉國輝(11-1-13)である。
第121回 皇太子と一緒に無断で散歩「銀ブラ事件」 千家崇彦 お墓ツアー
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