メイン » » » 千家尊宣
せんげ たかのぶ

千家尊宣

せんげ たかのぶ

1898.9(明治31)〜 1972.10.30(昭和47)

昭和期の神官、出雲大社教管長

埋葬場所: 1区 1種 6側

 島根県大社出身。祖父は第79代出雲国造の千家尊澄(1816-1878)。伯父は第80代出雲国造・出雲大社教初代管長・男爵の千家尊福。父は出雲大社宮司で第81代出雲国造の千家尊紀、母は子爵の松平忠和の長女の淑子の5男として生まれる。千家尊福の娘の厚子と結婚し婿養子となるが、死別したため後に分家した。
 出雲大社東京分祠出張所長、4代目 出雲大社教管長に就任。國學院大學の教授や理事を務めた。主な著書に、『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』(1958)、『神道出雲百話―皇室をめぐる日本の心』 (1968)、『出雲神道の研究―千家尊宣先生古稀祝賀論文集』 (1968)、『千家尊宣大人祭詞集』 (1974)などがある。

<著者略歴など>
<森光俊様より情報提供>


墓所

*洋型風の寝石に「千家々之墓」。墓石の後ろにレンガ壁があり、墓誌がはめ込まれている。

*墓誌は3つあり、右・中・左の墓誌として一人ずつ紹介したい。
 右の墓誌には千家活麿、千家尊宣、千家昭夫、千家正麿の四名が刻む。千家活麿は千家尊紀の庶子(6男)で尊宣の腹違いの弟(詳細は下記)。千家昭夫(1921-1945.7.18)は誰の子かは調査中であるが戦死されている。千家正麿(1910-1977.8.12) は千家尊紀の庶子(8男)で尊宣の腹違いの弟。
 中の墓誌は千家恒麿、千家華子、千家紀彦、千家雅子、千家崇彦の五名刻む。千家恒麿は千家尊紀の庶子(7男)で尊宣の腹違いの弟(詳細は下記)。千家華子(1998.8.15歿・行年88歳:男爵の尾崎洵盛の長女)は千家活麿の妻。千家紀彦は尊宣の長男で作家(別ページにて掲載)。千家雅子(2001.9.4歿・行年97歳:子爵の木下俊哲の長女)は千家尊宣の後妻。千家崇彦は尊宣の二男で皇太子(平成天皇:上皇)と銀ブラ事件を起こした張本人(別ページで掲載)。
 左の墓誌は千家しづ、千家萬里子の二名が刻む(R4.6現在)。千家しづ(2007.11.30歿・行年92歳)は千家恒麿の妻。


【出雲国造家の千家】
 千家(せんげ)と北島(きたじま)の2つの出雲国造家(いずものくにのみやつこ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の第2子の天之菩卑能命(あめのほひのみこと:天穂日命)に発する。
 記紀神話の天孫降臨(てんそんこうりん)に先駆けて葦原中つ国(あしはらのなかつくに)へ降ったものの、大国主(おおくにぬし)神に媚(こ)びて3年間も復命をしなかった、というマイナス・イメージで描かれているが、出雲国造家では独自の神話伝承を持っている。 『延喜式(えんぎしき)巻第八』に収められている『出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』がそれで、その中ではアメノホヒの功績が高らかに謳(うた)いあげられている。 そして、この祝詞(のりと)は出雲国造が代替わりするたびに、新任の国造が朝廷に参向(さんこう)して奏上(そうじょう)されている。それほどの伝統と格式を持つ最古の家系なのである。
 その出雲国造家が二流に分かれたのは、後村上天皇の1343(興国4年:こうこく)、第55代国造の孝宗(たかむね:千家始祖)と、その異母弟の貞孝(さだたか:北島始祖)の家督争いによるもの。 そこには南北朝の内乱の影もうかがえ、北島が南朝を支持していた。翌年、両者は約定を結び、大社神事を奇数月は千家、偶数月は北島で分掌(ぶんしょう)することに決め、以来、出雲大社をはさんで西(左側)に千家(大宮司)、東(右側)に北島(少宮司)の両国造家が位置している。
 1871(M4)国造職が廃止(ただし名称はその後も相続)されたが、同年12月、両家は同時に華族に列せられ、1884.7(M17)千家尊福(たかとみ:第80代)と北島修孝(なかのり:第76世)に、それぞれ男爵が授けられた。
 特に千家尊福の神道界に与えた影響は大きい。1880(M13)神道事務局で「祭神論争(さいじんろんそう)」が起きると、従来の造化三神(ぞうかのさんしん)と天照大御神だけでよいとする伊勢派に対して、幽冥界(ゆうめいかい)を司る大国主神も合祀せよ、と強く主張した。 1882(M15)神官と教導職の分離が命じられると、神社の宗教活動の限界を感じて国造職と宮司職弟の尊紀(たかのり)に譲り、自ら管長となって、同年5月、教派神道としての神道大社派(出雲大社教)をひらいた。 このとき、北島でも出雲教を組織した。1886(M19)出雲臣(いずものおみ)の誇りを胸に宮内卿にたいして「陞爵嘆願(しょうしゃくたんがん)」を出したが退けられた。千家尊福はその後、1888(M21)元老院議員、貴族院議員に就任し、政界・官界でも活躍し、埼玉・静岡・東京の各府県知事を歴任、1908(M41)西園寺内閣の司法大臣として入閣している。

<歴史読本「天皇家と華族」天皇家をささえた華族:千家家/北島家>


【出雲大社教(いずもおおやしろきょう)】
 第80代の出雲国造で出雲大社の大宮司を務めていた千家尊福(せんげ たかとみ:1845-1918)が、1873(M6)各地の講を統合拡張して出雲大社敬神講(けいしんこう)を組織したことにはじまる。
 1882(M15)官社神官と教導職が分離されると、尊福は布教活動の必要性から宮司職を辞し、組織名を神道大社派(しんとうたいしゃは)と改めて独立させ、初代管長に就任した(同じ出雲国造の北島家は出雲教を設立)。
 1951(S26)組織名を現在の出雲大社教(いずもおおやしろきょう)に改め、出雲大社を宗祀とする組織に戻した。祭神は大国主大神で、幽世(かくりよ)の主宰神とする。これは『日本書紀』の一書(あるふみ)に、現実の政治(顕露の事)は天孫(てんそん)が、幽世の神事(幽事)は大国主大神が担うことになったという記述に由来し、幽世の大国主大神は現生に幸福をもたらす神ととらえられている。

本部:島根県出雲市大社町 / 団体数:225 / 法人数:110 / 信者数:1,260,603人

<新宗教の本:オールガイド より>


千家活麿 1902(明治35)〜1958.12.19(昭和33)昭和期の銀行家、実業家
 島根県大社出身。千家尊紀の庶子(6男)。千家尊宣(同墓)は腹違いの兄。
 東京帝国大学法学部卒業。1926 安田銀行(後の富士銀行:現在のみずほ銀行)に入行。その後、高砂ゴム工業専務、日本金蔵産業取締役、'41 日本精工取締役、'43 日本精工常務、'50 日本精工監査役、'55 萱場工業専務を務めた。享年56歳。
 妻は男爵の尾崎洵盛の長女の華子(同墓)。子息に光雄、英雄、満喜子がいる。

千家恒麿 1906(明治39)〜1982.12.14(昭和57)昭和期の銀行家、実業家
 島根県大社出身。千家尊紀の庶子(7男)。千家尊宣(同墓)は腹違いの兄。
 東京帝国大学経済学部卒業。1930(S5)不動産貯蓄銀行入行、'35 南洋興発、'49 芝浦製糖監査役、'51 太陽醸造常務取締役を務めた。
 妻は しづ。長女の章子は志立正臣の四男の志立毅に嫁ぐ。


*千家尊宣、活麿、恒麿らの父の千家尊紀(1860-1911)は出雲大社宮司・第81代出雲国造。通称は福千代麿。第79代出雲国造の千家尊澄の三男。兄は第80代出雲国造の千家尊福。千家尊紀の長男、尊宣らの長兄は千家尊統(1886-1969)で、尊福の養子となり家督を継ぎ、男爵・出雲大社大宮司、第82代出雲国造となった。なお、尊統の長男は千家尊祀(1913-2002)で83代出雲国造。尊祀の長男は千家尊祐(1943-)で84代出雲国造。尊祐の長男は千家国麿(1973-)で高円宮 憲仁親王の娘の典子女王殿下と結婚した。

<人事興信録など>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。