島根県大社町出身。祖父が八十代出雲国造出雲大社大宮司・出雲大社教初代管長・男爵の千家尊福。父親は國學院大学教授で出雲大社管長を務めた千家尊宣(同墓)。
弟に今上天皇(当時皇太子)と銀ブラ事件を起こした千家崇彦(同墓)がいる。ペンネームは青柳淳郎(あおやぎ あつろう)。別名に本間r閑斎(ほんま あかんさい:「r」はわざと入れている)
厳しい父に反発して、1939(S14)学習院中等科2年生の時に煙草を吸って退寮処分となり、その後も授業をさぼって喫茶店でたむろするなど不良となる。
化学教師に注意されて怨み、3年生の時、仲間5人(全員が伯爵や子爵の子息)で廊下を歩いていた化学教師に投石し、教師が倉庫に逃げ込むとさらに石を投げて倉庫の窓ガラスを何十枚も割った。
学習院院長だった野村吉三郎海軍大将は「なかなか元気のいいことをやったな」と一言云っただけで、首謀者は紀彦含め1週間の停学処分のみであった。
同じ頃に、兄も厳しい父親に反発して中学退学で家出、親戚の三兄弟とともに銀座のミルクホールを拠点に毎日ケンカを繰り返す愚連隊となっていた。
本人も学習院を中退し、不良三昧のあげくに入獄。後に自身が執筆刊行した自叙伝『背徳の家の子―わが非行体験を告白する』(番町書房・1963)に詳しい。
1958加藤馨らと組んで取材集団・青柳プロを主宰して青柳淳郎の名で筆を振るった。これは週刊誌の巻頭を飾るようなニュースを探りだし、記事にして雑誌社に売り込むことを仕事にするトップ屋という仕事である。
翌年夏に事務所を開設。出雲大社の神職・千家一族として天皇家に深い関心を抱き、皇太子妃をスクープするなど、皇室関連に強いジャーナリストとして活動を展開した。
『週刊実話』との関係も深く、最盛期には社員45人も在籍するほどであったが、'62経営不振により解散。以後、作家業として多くの著作を世に発表している。
主な著書に『また明日またその明日(悲愴)』(1968)、『離婚のすすめ: 愛してないのはお互いさま』(1968)、『浪花エロ事師列伝―河内艶笑譚』(1983)、『皇太子即位の日』(1985)、『女囚の部屋』(1985)、『奈落の光景 : 私のなかの女たち』(1992)など多数あり、別名の本間r閑斎で『破礼句(快+猥)講座』(1985)などもある。『睡蓮と小鮒』(1980)で、昭和50年度の第10回関西文学賞を受賞した。享年69歳。