神奈川県横浜市出身。1904(M37)11歳の時に横浜市の和洋菓子製造業「風月堂」に見習いとして菓子作りを学ぶ。見習いをしながら中学校に通い、卒業をすると、'07東京三田の東洋軒に入り、フランス料理・フランス菓子の修業を続けた。17歳にして東洋軒の次長にまで出世し、'15〜'17(T4-T6)宮内省大膳寮員を拝命され、大正天皇にお菓子やアイスクリームなど最先端の菓子をお作りする栄誉を賜る。'17福岡県大牟田が市制になった時期に赴き、九州のオーベルジュ「共進亭」の製菓部門立ち上げに奮闘。
'21.8東洋軒製造部長の時に、日本人として初めて菓子製造視察研究のために渡仏。パリのホテル・マジェスチックに宿泊。このホテルは日本の皇族らが泊まる一流ホテルであり、ここで料理菓子・飴細工・チョコレート製造方法などを学ばせてもらう。マジェスチックに宿泊をしながら、リュ・カンボ通りにある一流菓子店「コロンバン」にて日本人として初めて修業。技術が認められ、社長のジョゼフ・オドーヌから日本での「コロンバン」の使用の許可を得る。なお、コロンバンで攪拌機(かくはんき=ミキサー)、アーモンドの皮剥き機、ブドウの種抜き機、シュークリームの種つくり機、チョコレート型抜き機など最新の製菓用機器に触れ感銘を受け、帰国の際には、これらの機器を購入し日本に持ち帰った。
'22.12帰国し、東洋軒に復職し、銀座に店舗を開店した。その際、入口から赤い絨毯を敷き詰めた装飾をした。しかし、'23関東大震災にて店が被災し、東洋軒を退職。'24.3大森で純仏蘭西菓子の製造販売のコロンバンを創業。日本における初めての本格的なフランス菓子店であり、以前、大正天皇の大膳寮員を拝命した縁より、創業当初から洋菓子業界唯一の宮内省御用達となる。また創業当時より日本人パティシエをフランスに送り出し人材育成も行った。加えて、世界で初めて「ショートケーキ」を作ったお店でもある。
'31(S6)銀座6丁目に銀座コロンバンを開店。日本で初めて冷蔵ケースを設置し洋生菓子を販売した。お店は階下を近代風にし、らせん階段を上がった階上は古代フランス風の喫茶室とし、藤田嗣治画伯による6枚の天井壁画とシャンデリアの装飾。パリのサロンドテをそのまま移設したかのような内装と本物の洋菓子は、当時の文化人や知識人をひきつけ人気サロンとなった。多磨霊園に眠る常連客は、入江たか子(13-1-45-20)、岡本一平(16-1-17-3)、菊池寛(14-1-6-1)らがいる。なお室内は冷房設備まで装備し、皇室・皇族方には当時としては最先端の自動車(ダットンサン14型)でお菓子をお届けした。
更に同年、同じ銀座にて、パリ風のカフェテラスを模したオープンテラスの「テラスコロンバン」を開店。オープンテラスも日本初の試みであったが、当時は斬新すぎて客足が伸びなかった。日仏親善の巴里会を創設し理事に就任し、日本で初めてパリ祭を銀座で開催した。
戦時中は物価が統制され、砂糖は配給停止、銀座コロンバンは休業を余儀なくされた。'48戦後、株式会社コロンバンに組織変更し事業を拡大。東京都洋菓子工業組合と、東京都アイスクリーム協会を設立し、それぞれ理事に就任した。'49チョコレート供給不足を解消するために、チョコレート工業協同組合の結成に参画し理事となる。
'51渋谷・東横のれん街に出店。ここに「洋菓子実演室」つくり、日本で初めて洋菓子の実演販売を行った。お菓子作りの工程を消費者に披露したことで洋菓子ブームに沸き、工場を各地に建設して生産態勢を整え、全国のデパート、駅ビル等に売店を設け、コロンバンは全国的なブランドに成長、定着した。
'55日本洋菓子技術協会名誉会長に就任。'59フランス政府よりフランス菓子の教育普及、日仏文化交流に寄与した功により教育功労文化勲章を授与された。'60パリ洋菓子組合よりグランド・コンクール・アントルメにて優秀賞を受賞。'61全日本洋菓子工業協同組合を設立し理事長に就任。また、世界菓子連盟日本代表に就任し日本で初めて連盟会員になる。同年、藍綬褒章を賜る。'65フランスサンミッシェル協会よりフランス菓子の普及の輝かしい功績により日本人として初めて名誉ある金メダルを受賞。'68世界洋菓子連盟東京大会を開催。'70フランス政府よりメリット・アグリコール勲章を賜る。'77洋菓子業界の振興と業界の発展と日仏交流の寄与、洋菓子協会の指導育成に関する功績により勲4等瑞宝章を受章。享年87歳。青山斎場にて葬儀・告別式が営まれた。
<門倉國輝翁88年のあゆみ> <コロンバンの沿革> <コロンバン創業者の歴史など>
*墓石は洋型「門倉家墓」。裏面に「昭和五十七年十二月 門倉國輝 建之」と刻む(門倉國輝は昭和五十六年に亡くなっているが)。左側に墓誌がある。戒名は壽徳院興譽蘭芳國豊居士。妻はくら(1896.7.24-1975.11.24)。くらは十字架を刻みマリア・クリスチーカと刻む。
*妻のくらは、シベリア鉄道経由で何週間もかけてフランスにマダム修行に行った。お菓子の陳列、ラッピング、詰め合わせの要領から、顧客のもてなし方、振舞い方まで幅広く学んだ。夫の成功の影に内助の功有り。1958年頃より『Bnobon』にて回想録「コロンバンと共に」を門倉くら名義で執筆連載をした。
*1952(S27)明仁親王(当時の皇太子:平成天皇:現在の上皇)が学習院高等科の3年生の3学期の試験が終わった日、「銀座へ行きたい」と、そっと学友たちと護衛の目を盗んで銀座に出かけた「銀ブラ事件」。最初に高級喫茶「花馬車」に入りコーヒーを皆で飲むが、店主に皇太子と素性がバレたため、「コロンバン」に店を替え、そこでアップルパイと紅茶を楽しんだ。皇太子が行方不明になったと大騒動となり、警察が緊急配備、皇太子生涯ただ一度の小さな“冒険の旅”は終わる。その時に、一緒に銀ブラに付き合った学友の一人が千家崇彦(1-1-6)。更なる詳細はそちらの頁へ。
*門倉國輝亡き後のコロンバンは平成時代に入り、売上は年々減少。売り場のショーケースには、世界初の目玉のショートケーキをはじめとし、わずか4種類のみ。老舗にありがちな新しい変化を嫌う経営で倒産寸前であった。現在のコロンバン社長である小澤俊文氏は、三菱東京UFJ銀行に勤めており、コロンバン再建のため銀行から出向。ブランド力に新しい変化が必要であると感じ、新商品の開発に挑む。本気で再建するために銀行マンを辞して、2005(H17)コロンバンに入社。「原宿ロール」、「原宿焼きショコラ」、大学の高章入りクッキー「大学缶」などを発表し大ヒット。新しい風を吹き込みコロンバンは甦り現在に至る。
第253回 銀座 コロンバン 世界初 ショートケーキ 門倉國輝 お墓ツアー
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