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おかもと いっぺい

岡本一平

おかもと いっぺい

1886.6.11(明治19)〜 1948.10.11(昭和23)

大正・昭和期の漫画家

埋葬場所: 16区 1種 17側 3番

 北海道函館区汐見町(函館市青柳町)出身。祖父は津藩に仕えた儒学者の岡本安五郎。父は書家の岡本可亭。長男として生まれる。義弟に洋画家の池部鈞がおり、甥は俳優の池部良。3歳の時に大阪、6歳の時に東京京橋に移り育つ。7歳で狩野派の絵を習学する。
 1903(M36)商工中学卒業後、武内桂舟、徳永柳州、藤島武二について洋画の指導を受ける。'06 東京美術学校西洋画学科に進学し、在校中に帝展『トンネル横町』を出品し入選。この頃、同級生の中井金三の仲介で大貫晶川の部屋に遊びにいった時に、大貫晶川の妹の大貫カノ(岡本かの子:同墓)と知り合う。一平が求愛し、面食いだったかの子も受け入れ付き合いが始まる。
 '10 東京美術学校西洋画科選科を卒業し、和田英作のもとで新築の帝国劇場で舞台芸術の仕事に関わる。和田英作の媒酌でかの子と結婚するが、衣装道楽で不器量なお嬢様は岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えることになった。1911.2.26(M44)長男の太郎(同墓)が誕生。一平が24歳、かの子が21歳である。
 '12 夏目漱石から漫画の腕を買われ、朝日新聞で連載をしていた正宗白鳥(24-1-8)の小説「生霊」の挿絵担当の名取春仙の代筆を務めた。これが機に、東京朝日新聞社に入社し漫画スケッチを担当。こま絵『黒きリボンと愁たき顔』(1912年8月1日号)で漫画記者としてデビュー。
 漫画に解説文を添える「漫画漫文」というスタイルを築く。このオリジナルな漫画のスタイルは大正から昭和前期にかけて一時代を画した。'21.5.2(T10)東京朝日新聞に最初の物語漫画『人の一生』の連載を開始(漫画入り小説は日本初)。'22.3 婦女界社の要請により単身で世界一周の旅に出発。途中のパリで藤田嗣治に会い、同.7 帰国。'24 この旅を探訪漫畫漫文集『世界漫画漫遊』として発表した。また『弥次喜多』も同時期に発表。他に夏目漱石から絶賛を浴びた『熊を尋ねて』がある。
 洒脱(しゃだつ)で洗練された画調と、人間味に富んだユーモラスな文章は大衆の人気を集めた。また権力に抗する庶民的な感覚は、政治漫画において鋭く発揮され、それまでポンチ絵と見下されていた漫画を庶民の芸術として認めさせた。今日一般化した社会・政治風刺の漫画、戯画の先鞭(せんべん)をなす功績を残した。
 なお一平は子ども漫画、似顔絵漫画、風俗漫画、政治漫画などのマンガだけでなく、随筆、紀行文、小説と活躍は多岐に渡り、絵だけでなく文章をよくした。著作『探訪画趣味』の序文で夏目漱石は「普通の画家は画になるところさえ見つかれば、それですぐ筆をとります。あなたはそうではないようです。あなたの画には、必ず解題が付いています。そうしてその解題の文章が、大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方がまさっているように思われるのさえあります。」と書いている。
 '27(S2)春陽会会員。'29 先進社から全15巻で刊行した『一平全集』は5万セットの予約が入るなど一世を風靡し、戦後活躍する手塚治虫らにも影響を与えた。
 同.12 朝日新聞の特派員としてロンドン軍縮会議取材の命を受けたこともあり、岡本一家はヨーロッパ旅行をする。その際に、かの子、太郎の他に、一平も認知しているかの子の愛人の恒松安夫(歴史学者・戦後に政治家・島根県知事)と新田亀三(外科医師)も同行。2年3カ月の間に9カ国を巡り帰国。一平はこの旅を『漫画漫遊 世界一周』として発表。なお、太郎は旅の途中にパリのソルボンヌ大学で勉強するために現地に留まっている(結果的に11年間滞在した)。
 帰国後、'36(S11)まで朝日新聞の漫画記者を勤める。この間、'29 全国高等学校野球選手権大会の取材のため甲子園に赴き、大幅に増築されたスタンドが観客の着衣で白く映え上がって見えたことをアルプスに例え、「そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ。上の方には万年雪がありそうだ」というキャプションを入れた漫画を朝日新聞で発表。これが現在でも「アルプススタンド」という名称が定着するきかっけとなる。
 後年、かの子と共に仏教研究に打ち込み、小説にも力を入れ『刀を抜いて』は映画化もされた。また漫画家養成の自宅で私塾「一平塾」(後の漫画自由研究会)を主宰し後進の指導も行う。門下生には近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑、宮尾しげを、矢崎茂四、小山内宏、旭正秀らを輩出している。
 かの子との間に太郎ら三人(二男と長女は夭折)の子を儲けたが、自身の放蕩(ほうとう:酒や女に溺れる)癖や、芸術家同士であるが故の強い個性の衝突、加えて子どもの早死、兄や母の死も重なり、かの子に負担が重く神経衰弱に陥る。精神科に入院するまでに苦しませることになったことを一平は反省し、初めはかの子の愛人に託して離れたりもしたが、結果的に、公認のもとで、かの子の愛人を家族と同居させるという奇妙な夫婦生活を送ることになった。'39 かの子が亡くなるまで離縁はせずに夫婦生活を全うした。一平はかの子の死から14日後に追憶記の執筆をはじめ、『かの子の記』(1942)として刊行。また かの子の寄稿を整理して出版にも努めた。
 '40 歌詞を担当し、徳山璉の歌唱で吹き込まれた『隣組』のレコードが大ヒット。'41.1 山本八重子と再婚。太郎とは異母弟妹にあたる、いづみ(次女)、和光(三男)、おとは(三女)、みやこ(四女)を授かる。戦争中は岐阜県加茂郡白川町に疎開。戦後は加茂郡古井町(美濃加茂市)に移住し、この地で没するまで文筆活動を行った。ユーモアを織り込んだ十七文字形式の短詩「漫俳」を提唱した。'48.10.11 遺作となる小説『一休迷悟』の執筆後、入浴した直後に脳内出血で倒れ逝去。享年62歳。

<コンサイス日本人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<世界美術年鑑>
<函館ゆかりの人物伝>
<『一平かの子 心に生きる凄い父母』岡本太郎>
<日本史人物「女たちの物語」など>


墓地
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墓地 桜

*墓所には三基。右手側の右に岡本かの子の墓「観音像」、台座に「岡本かの子」。左に岡本一平の墓「顔」、台座「一平」。向かい合って岡本太郎と太郎の養女の岡本敏子の墓「午後の日」、台座に「岡本太郎」が建つ。真ん中に川端康成の「母の手紙」序の岡本家に関しての碑が刻む。

*岡本太郎が初めて花器として制作した立体作品が『顔』であり、その作品を父の墓標に選び、1954(S29)一平の七回忌の時に建之された。当時「お墓の革命」だと呼ばれたという。なお大阪万博の「太陽の塔」に似ているが一平の墓の方が先である。


【川端康成「母の手紙」序より】墓所内に建つ碑の全文
 岡本一平、かの子、太郎の一家は、私になつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりひとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。
 一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、天婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。
 この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互を高く生かし合いながら、お互が高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。
 古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。



第1回 岡本太郎のお墓ツアー


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