岡山県和気郡伊里村(備前市)出身。本名は忠夫。村長や銀行家の正宗浦二の長男として生まれる(兄弟妹9人:6男3女)。弟に国文学者で歌人の正宗敦夫、画家の正宗得三郎(23-1-10)、植物学者の正宗厳敬らがいる。
1901(M34)東京専門学校文学科卒業。幼少期より病弱で生の不安と恐怖を抱いて育ったため、キリスト教指導者の植村正久(1-1-1-8)や内村鑑三(8-1-16-29)らに影響を受け、植村正久より洗礼。しかし卒業と同時に信仰心は遠のいていった。
卒業後、読売新聞に『花袋作「野の花」』を発表し、小説家の田山花袋(12-2-31-24)と論争が起った。島村抱月の指導で評論を書き始め、'03 読売新聞社に入社し文芸・美術・教育を担当。同じデスクで仕事をしていた作家の上司小剣(4-1-57-35)を知り影響を受け、記者生活の傍ら小説の筆をとり、'04 処女作品となる『寂寞(せきばく)』を発表し文壇デビュー。
'07 読売新聞を退社し、本格的に作家活動に入り、『塵埃(じんあい)』、日露戦争後の青年像を描いた『何処(どこ)へ』を発表し自然主義文学に新分野をひらくことになる。'09 読売新聞に『落日(らくじつ)』を連載するなど、数多くの佳作を世に出し、戯曲などの作品もある。人生に対する懐疑とニヒリズムに支えられた作品を多く発表。正宗白鳥のニヒリズムは虚無や冷笑を基調とした否定的な人生観にあり「ニヒリスト白鳥」とよばれた。
昭和期に入ると評論に活動の主力が注がれ、「文壇人物評論」や文芸時評・回想録等に優れ、'36(S11) 小林秀雄と〈思想と実生活〉論争を展開し注目された。71歳にして750枚にも及ぶ長編小説『日本脱出』(未完)を書くほどの旺盛さであった。
その他、日本ペンクラブ会長、帝国芸術院会員。'50 文化勲章を受賞。死の直後にクリスチャンであることを表明し話題になった。すい臓がんで逝去。享年83歳。
<コンサイス日本人名事典> <朝日日本歴史人物事典> <講談社日本人名大辞典> <小学館 日本大百科全書> <「正宗白鳥論」赤井之明 など>
*墓石前面は「正宗忠夫家之墓」、裏面「昭和三十三年一月 正宗忠夫 建之」と刻む。墓誌などはない。
*妻は つ禰(同墓)。1911(M44)結婚。つ禰は甲府市の油商の清水徳兵衛の娘。弟の正宗得三郎の長男の正宗猪早夫(23-1-10-1)は日本興業銀行頭取を務めた銀行家で甥にあたる。
*正宗白鳥は三代も子供がなかった家の待望の長男であったため、幼少期より家を継ぐ者として意識され育てられる。当時の村社会や家の問題の窮屈さから離れることばかり考えるようになる。また東京に出た後も六男三女の長男ということで求められることが多かった。しかし、妻のつ禰は正宗家の実家に馴染めなかったこともあり、実家は弟の正宗敦夫に任せていた。そして肉親、両親、年下の弟二人の死に触れ、それを題材にした作品も発表。この流れで、岡山の代々が眠る菩提寺の正宗家の墓に自身も眠るべきかを考え始める。結果、実家の墓は正宗敦夫に譲り、正宗白鳥は80歳の時に多磨霊園のこの墓を購入した。1958.10.26(S33)朝日新聞朝刊に「このごろ死に場所をと思って多磨墓地を少し買った。しかし、永井荷風がけっきょくは両親の墓所に納ったと同じように、ぼくもいざとなれば、郷里の墓へ行きたくなるかもしれない」と書いている。購入してもまだ葛藤があったことが伺えるが、その翌月、同.11.12(S33)正宗敦夫が亡くなる。納骨に立ちあったであろうことから、自分の終焉の地に対して決着をしたと推察する。その三年後に末期がんとなり、幼少期の長男としての苦しみ、病気の苦しみから開放してくれたキリストの教えが蘇り、臨終の際の信仰復帰の表明と繋がったのであろう。
第152回 否定的な人生観 ニヒリスト 小説家 評論家 正宗白鳥 お墓ツアー
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