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まさむね とくさぶろう

正宗得三郎

まさむね とくさぶろう

1883.8.22(明治16)〜 1962.3.14(昭和37)

明治・大正・昭和期の洋画家

埋葬場所: 23区 1種 10側

 岡山県和気郡穂浪村(備前市穂浪)出身。正宗家は代々網元で200年以上続く名家。江戸時代(天保)の正宗雅明までは材木商で財を成し、以降は文人として活躍し、狂歌、和歌、俳句、画技にも優れた人材が代々続いた。
 村長や銀行家の正宗浦二の三男として生まれる(兄弟妹9人:6男3女)。長兄は小説家の正宗白鳥(24-1-8)。次兄は歌人・国文学者の正宗敦夫。弟の四男の正宗律四は同じ洋画家となるが若くして亡くなる。五男の家嗣は丸山家に養子となり実業家として日本パイプ会長。六男の正宗厳敬は植物学者で金沢大学教授。妹の乙未(おとま)は地理学者の辻村太郎に嫁ぎ、清子は香登教会溝手伝道師の長男に嫁ぎ、夫と死別後に神官の山尾家に再嫁した。
 1902(M35)画家を志し上京し、寺崎広業の天籟画塾に通い日本画を学ぶが、油彩画家を志すことに変更し、'07 東京美術学校西洋画科を卒業。在学中に一学年上の明治の天才画家の青木繁から絵画に対する情熱を注がれ感化され親交を持ち生活をも共にした。また同期に森田恒友(13-1-37-2)や山本鼎らがいた。
 '09 第3回文展に初めて『白壁』を出品。'10 高松光太郎の経営する日本初の画廊「琅(王干)洞」(ろうかんどう:かんの漢字はタマヘンに干)で第1回個展を開く。また文展に『夕日反映』、白馬会展に『落椿』を出品した。同.11 千代子と結婚。'11 第5回文展に落選し、友人らと落選展覧会を開く。これが後に二科会発足の契機となり、二科設置運動に加わった。この年は肺結核のため青木繁が28歳の若さで亡くなった。蒲原有明らと青木繁の遺作展を開き、また遺作集『青木繁画集』を編集刊行した。
 '14(T3) 二科会の創立に参画。同.4 フランスに留学。'15 フランスから二科展に出品し会員となる。なお、フランス留学ではクロード・モネに直接会い「光」を学び、さらにアンリ・マティスから「色彩」の響きを学んだ。フォーヴィスムの手法を修得。しかし、第一次世界大戦の悪化により、'16 やむを得ず留学を中断し帰国。帰国の際は島崎藤村と同船であり、以降親交を深めた。
 帰国後、第3回二科展に『トックの女』『リモオジュの朝』『リモオジュ風俗』など36点の滞欧作36点を出品陳列する。'17 信州や銚子に写生旅行を行う。この頃より、'21まで文化学院で教鞭を執る。'18.11 東京中野にアトリエを新築する。
 欧州の戦果が落ち着いたのをみて、'21.9〜'24.6 再びフランスに留学した。第11回二科展に『モレーの運河』、他にも『セーヌ支流』『モレーの冬』『パリのアトリエ』など滞欧作を特別出品した。帰国後は二科会の重鎮として活動しつつも出品も続け、主な作品に『海岸の夕暮』(第7回展)、『青衣婦人』(第12回展)、『赤い支那服』(第14回展)、『初秋』(第20回展)、『瀬田の唐橋』(紀元2600年展)などがある。印象派を基礎にした堅実な画風を確立した。'26 成城学園で美術教師を務める(〜'32)。
 '43(S18)第30回二科展・回顧展に25点を出品。『正宗得三郎画集』を刊行。戦争悪化のため、'44 二科会は解散。'45 空襲により中野のアトリエが焼失し多くの作品を失う。知人を頼りに長野県下伊那郡三穂村(飯田市)に疎開した。
 疎開先で馴れない畑仕事をしていたが、信州の豊かな山河に囲まれた環境、山河の彩りと山里の人々の深い温もりに接したことで、風景画を描くようになる。特徴は明るく新鮮な色調で存在感のある風景画であり、終戦後は北多摩群西府村(東京都府中市)に住み、武蔵野の緑豊かな風景画を多く描いた。'46 日本美術展に『山村風景』を出品。
 二科会再設立に声がかかったが参加せず、'47(S22)旧二科会の活動を第一期とし、戦後新しく美術の第二の紀元を画する意図のもとに「第二紀会」(1951「二紀会」に改称)を結成した。結成メンバーは熊谷守一(26-1-2)、栗原信(18-2-11)、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市の9名の同志である。以降は二紀会の長老として委員を務め、日本近代洋画の進展に尽力した。
 著書に『画家と巴里』。作風は一定しており、キュビズムや抽象画の影響を受けず、戦時中も戦争画を一枚も描かなかった。'49.9 肉腫に侵され手術を二回行い、レントゲン治療を続け奇跡的に回復する。体調が悪い時期であっても「音楽のように色彩(気韻)で、生き生き(生動)と絵を描きたい!」と絵画制作をつづけ、各地に写生旅行を行い、二紀会展に毎年出品した。他にも、'50 第4回美術団体連合展に『小菊』を出品。文人画家の富岡鉄斎の研究も行い、西洋画の技法と東洋の精神の融合を志した。著書『鉄斎』などもある。
 晩年、正宗得三郎の独自の絵画理論『色彩の音楽』を新聞誌上で発表している。「自らの絵は自由な色彩で音楽のように奏でてみたい。この青春期の強い思いは、フランスの印象派やフォーヴィスムを直接モネやマティスから学んでも、さらに文人画の巨匠、富岡鉄斎に心酔してもなお、独自の絵画を生涯貫く原動力となっていたのです。」と語っている。
 '62.3.14 脳軟化症のためかねて療養中であったが、府中市の自宅で逝去。享年78歳。遺作は『素園小景』。

<コンサイス日本人名事典>
<世界の芸術家辞典>
<日本美術年鑑>
<小学館 日本大百科全書>
<府中市美術館・三重県立美術館「正宗得三郎紹介文」など>


墓所

*墓石は和型「正宗家之墓」、裏面「昭和十八年七月 正宗得三郎 建之」。右側に墓誌が建つ。戒名は寂光院眞岳薇州居士。妻は千代子(戒名は浄光院慈岳梅芳大姉:S44.7.24歿・行年85才)。同墓には子息夫婦も眠り、長男の正宗猪早夫(H11.9.28歿)は日本興業銀行頭取を務めた銀行家。二男は正宗幹夫(H22.10.21歿)らが刻む。幹夫の二女の るり子は洋画家・二紀会理事・早稲田大学名誉教授・府中市美術館館長の藪野健に嫁いだ。藪野健の父の藪野正雄は正宗得三郎を師事した画家。

*1910.11(M43) 正宗得三郎と千代子は結婚し西大久保より新婚生活を始めた。千代子の談話によると「とてもユーモラスな性格の持ち主で喜怒哀楽を隠す事なく表現していた得三郎。元気いっぱいで大きな子供のようであった得三郎ですが、ある視点では多感で繊細な人間性であったとも言えます。」と述べている。また千代子は『正宗千代子短冊 内雲美短冊 あめもよい 空にぶいろに ゆうくれて 三つよつとびぬ 白鷺のむれ 「千代子」』なる本を出しており、得三郎没後には『亡夫の思い出』を出版している。

*疎開をした長野県飯田市伊豆木に「正宗得三郎記念碑」が建つ。


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