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まさむね いさお

正宗猪早夫

まさむね いさお

1913(大正2)〜 1999.9.28(平成11)

昭和期の銀行家

埋葬場所: 23区 1種 10側 1番

 東京出身。洋画家の正宗得三郎、千代子(共に同墓)の長男として生まれる。伯父に小説家の正宗白鳥(24-1-8)、歌人・国文学者の正宗敦夫。叔父には洋画家の正宗律四、実業家の丸山家嗣、植物学者の正宗厳敬がいる。
 1933(S8)東京帝国大学卒業後、重工業の発展や軍需工業の拡大に貢献していた特殊銀行の日本興業銀行に入行。
 戦後、'50.4 日本勧業銀行法等を廃止する法律の施行により日本興業銀行法が廃止され、銀行法に基づく普通銀行へ転換となり、'52 長期信用銀行として再出発した。以来、日本興業銀行は高度成長期の担い手となる重化学工業への資金供給をはじめ、日本企業の国際競争力強化に力を尽し、日本経済の発展に貢献。
 猪早夫も様々な要職の中で第二次世界大戦後の復興と高度経済成長を外債発行により支え日本からの資本輸出にも携わった。またアメリカなどの海外勤務などを経て、'57(S32)割引興業債券が売出発行方式を採用した年に総務部長に就任した。
 '68(S43)第3代 日本興業銀行頭取に就任した。'69.7 利付興業債券が売出発行方式を採用する。同.12 株式会社パシフィックリース、'70 日本経営システム(株)が設立。70年代はロンドン、ニューヨーク、サンパウロ、ルクセンブルグ、ロサンゼルスなど海外の駐在員事務所を支店に昇格させたり開設したりと海外に広げていく足がかりをつくった。同時にオイルショック等の荒波もあったが乗り越えた。'75.5 社長を退き、会長に就任。以降、顧問や相談役としてその後も携わる。
 '79.1.13 成城学園理事長に就任(〜'85.1.12)。また財団法人電気通信普及財団の会長、日本商工倶楽部顧問なども務めた。
 '98(H10)大蔵省、日銀への接待汚職で贈賄側の銀行が一斉に行内処分を受け、日本興業銀行の幹部たちも西村正雄頭取と黒澤洋会長の報酬全額返上など厳しい処分がくだされ、相談役であった猪早夫らも退任となった。なお日本興業銀行は、長老らの引退もあり、2000(H12)富士銀行、第一勧業銀行の2行と共に統合し金融特殊会社となり、みずほホールディングス・みずほファイナンシャルグループを設立、現在の「みずほ銀行」に至る。

<「日本興業銀行の歴史と歩み」など>


墓所

*墓石は和型「正宗家之墓」、裏面「昭和十八年七月 正宗得三郎 建之」。右側に墓誌が建つ。戒名は正譽院範道猪徳居士。妻は より(H18.5.19歿・行年92)。同墓には弟(二男)の正宗幹夫(H22.10.21歿)ら夫婦も眠る。


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