ストーリー漫画の先駆者である岡本一平(同墓)を父とし、小説家の岡本かの子(同墓)を母として、かの子の実家である神奈川県高津区(現・川崎市)にて生まれる。
東京青山にて育つ。風刺・風俗漫画家の池部均の妻は岡本一平の妹のため、その息子である俳優の池部良は従兄弟。
東京美術学校洋画科(東京芸大)を半年で中退し、1929(S14)父のロンドン軍縮会議取材に伴い、両親と共に渡欧し、そのまま単身パリのソルボンヌ大学哲学科に留学した。
ピカソに影響されるが、シュルレアリスムに関わったことでそちらに傾斜した。
パリには11年間滞在したが、'40ドイツ軍のフランス侵攻を受け帰国。帰国後、二科会に参加。
'42〜'45陸軍二等兵として召集され中国に出征。'47平野(岡本)敏子(同墓)と出会う。敏子は後に養女となった。
'48阿部公房、花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」を結成。'52東京国立博物館にて見た、縄文土器の強烈な表現に不思議なモノを感じ、また沖縄の魅力にも影響を受けた。
アヴァンギャルド芸術、対極主義を主張し、『夜明け』『重工業』『森の掟』等の問題作を次々に発表。以後、他国で個展を開くようになる。
'54現代芸術研究所を設立し、『今日の芸術』刊行。'56旧東京都庁舎に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
'61二科会を脱退。'67日本万国博のテーマ展示プロデューサーになり『太陽の塔』を制作('70大阪万国博覧会)。
他に、『こどもの樹』『母の塔(原作)』『座る事を拒否する椅子』など、平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。
近鉄バファローズ(現:オリックスバファローズ)の“猛牛マーク”を制作したことはあまり知られていない。
後年はTVなどメディアへの露出も多く、「芸術は爆発だ」のCMで庶民的にも知名度は高い。
'96「君は画家になりなさい」という手紙を送ったことが、画伯ジミー大西を誕生させるきっかけとなった。
80歳頃からパーキンソン病を患い、急性呼吸不全のため慶応義塾大学病院にて逝去。享年84歳。
没後、1998(H10)に青山の住居・アトリエ跡を岡本太郎記念館として開館。翌年に川崎市の生田緑地内に岡本太郎美術館が開館した。
【岡本太郎の墓 「午後の日」】
岡本太郎の作品「午後の日」「若い夢」「若い泉」は見た目が同じように見えるが違いは何であるのか、また多磨霊園の岡本太郎の墓の公式見解を知るために、直接、川崎市立岡本太郎美術館に電話をして聞いた。結果、多磨霊園の岡本太郎の墓の作品は公式見解としても「午後の日」であるとの回答をいただきました。
まず「若い泉」は姫路市夢前町にあるパブリックアートであり、この作品は口から水が出ている特徴があるとのことで区別ができます。では「午後の日」と「若い夢」の違いは何であろうか。一部ネットで「午後の日」は鼻が尖っていて、「若い夢」は丸みがあるなど、それで区別ができると書かれているのがありますが、その区別であると多磨霊園の岡本太郎の墓は鼻が丸いため「若い夢」となります。その疑問を岡本太郎美術館に聞いたところ、岡本太郎が設置した際に、その地域等々のイメージによって思った題名のどちらかを付けたということであり、二つの作品は特徴の違いから推測できるものではないとのことでした。よって、区別ができるということ自体が誤りであり、鼻が尖っていたり、丸かったりしていても、題名が同じ作品もあるとのことで、岡本太郎は特徴で分けて制作をしたのではないとのことです。
岡本太郎一周忌(1997)に多磨霊園に岡本敏子が岡本太郎の墓としてピッタリだとイメージしたのは「若い夢」の作品であったと、岡本太郎記念館のホームページ内の「岡本敏子の想い」のページに『岡本太郎の墓碑は敏子が迷わず決めた《若い夢》(多磨霊園で)』と写真付きで紹介されています。一方で『岡本太郎宣言』の著書の「太郎を語る 岡本敏子との対話」中では、「太郎さんのお墓も、皆にどうするの? と言われて選んだけど、あれ(「午後の日」)はまさに岡本太郎でしょ。」と記述があります。この件に関しても質問をしたところ、岡本敏子の考えはわからないが、岡本太郎美術館含む関係者の間では、多磨霊園の岡本太郎の墓の作品名は「午後の日」で統一しているとの回答でした。
補足情報。「午後の日」は1967年制作、「若い夢」1970年代制作、「若い泉」1974年制作。よって、頬杖をついた特徴あるこの作品は「午後の日」が最初である。「午後の日」はFRP(繊維強化プラスチック)や陶器製(ブロンズ)である。型をとってたくさん作ったため、西宮市大谷記念美術館や神奈川県立向の岡工業高校など全国各地に同じ作品があります。色付きの作品もあります。「若い夢」は日本青年館新館建設基金募集のためにさまざまな芸術家に呼びかけを行った際、第1回を担当した岡本太郎が制作した作品です。「人生は夢だ。夢みるものは、永遠に若い。にっこり笑って、この世のすべての空しさと闘い、挑み、それをのり越える。その瞬間にこそ、若い夢がひらくのだ。 by 岡本太郎」
<2022.2.22 多磨霊園著名人研究家:小村大樹>
*「岡本太郎記念館」(東京都港区南青山6丁目1-19)は父の一平から相続し、42年に渡って暮らした住居兼アトリエである。岡本一平、かの子、太郎の一家が永く暮らし、一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地である。旧居は戦災で焼失したが、戦後、坂倉準三の設計でアトリエを建てた。万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。岡本太郎没二年後、坂倉準三の手による旧館はそのままに、隣接する木造2階建ての書斎、彫刻アトリエを新築の展示棟に建て替えて、財団法人の運営する公的なミュージアムとして公開している。
*「川崎市岡本太郎美術館」(川崎市多摩区枡形7-1-5 生田緑地内)。かの子の実家のある神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で生まれた岡本太郎より、1991(H3)352点の作品が川崎市に寄贈された。1993.1 川崎市は岡本太郎に川崎市名誉市民を贈る。同.3 岡本太郎所有の作品1427点が追加寄贈された。1997.10.30 開館。2003.4 岡本敏子所有の岡本太郎関連資料1827点が寄贈される。美術館では寄贈された作品の所蔵・展示している他、両親である漫画家・岡本一平、小説家・岡本かの子の芸術を顕彰する美術館でもある。
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