千葉県出身。旧姓は平野。東京女子大学卒業。1948(S23)頃に岡本太郎(同墓)と出会い、秘書として支え、のちに養女となった。
岡本太郎の死去まで約50年間あらゆる製作に立会い、取材に同行、後述メモし執筆を扶ける。'96(H8)岡本太郎が亡くなる。'97岡本太郎記念現代芸術振興財団理事長に就任。'98太郎と共に暮らしていた青山の住居・アトリエを岡本太郎記念館として開放し、その館長として運営にあたった。著書に『岡本太郎に乾杯』、『岡本太郎が、いる』。編著に『画文集・岡本太郎 歓喜』、岡本太郎著『眼 美しく怒れ』がある。太郎没後に“岡本太郎”が一般から再評価を受けるようになったことは敏子の功績だと言われる。
1968(S43)太郎がメキシコで制作した「明日の神話」が長い間行方不明であったが、2003(H15)敏子がメキシコシティにて確認・発見した。『明日の神話 再生プロジェクト』の志半ば、急性心不全により逝去。享年79歳。
没後、2005.10.5〜2006.4.3まで岡本太郎記念館にて「岡本敏子のメッセージ」展が催された。
【明日の神話】
「明日の神話」の作品は、 メキシコ人実業家の依頼を受けた岡本太郎が、1968〜69にかけてメキシコにて完成させた、原爆の炸裂の瞬間をテーマに制作した巨大壁画(縦5.5メートル、横30メートル)であり、岡本太郎の絵画作品では最も大きい作品である。1970大阪万博のシンボルとなった「太陽の塔」と‘対をなす’作品といわれている。作品内容は原爆の炸裂する瞬間をモチーフとし、未来に対するメッセージを描いたものであり、炸裂の瞬間は残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間誇らかに「明日の神話」が生まれると信じた、岡本太郎の痛切なメッセージを伝えているとされる。
この壁画は、メキシコの新築ホテルのロビーを飾るために描かれたものだったが、依頼主の経営状況が悪化に伴いホテルは開業されずに放置され、その後、壁画も取り外されて各地を転々とするうちに行方がわからなくなっていた。2003メキシコシティ郊外の資材置き場にひっそりと保管されていた壁画を、長年作品を探していた岡本敏子が確認、発見に至った。作品は、長年にわたって劣悪な環境に置かれていたために、大きなダメージを受けていた。この状況を見た岡本敏子は、岡本太郎作品をこのまま朽ち果てさせるのではなく、日本に移送、修復した後に、広く一般公開を目指したいと強い希望を打ち出し、『明日の神話 再生プロジェクト』が立ち上がった。所有者との間で所有権の移転交渉を進め、2005春に合意に達し、4月メキシコにて壁画を解体・梱包作業が開始され日本への移送準備が整い、5月28日に日本到着。しかしこの間に、志半ば岡本敏子は急逝した。
『明日の神話 再生プロジェクト』は、ゼネラルプロデューサー・平野暁臣、修復家・吉村絵美留、構造家・中田捷夫が率いる“再生”チームが概ね1年かけて、バラバラで欠損部分もあった壁画を全面修復することに成功した。このプロジェクトの“メディアパートナー”となったのが日本テレビであり、修復が完了した『明日の神話』を期間限定(2006年7月8日〜8月31日)で日テレプラザに展示。また、これを記念して特別番組の放送や、イベントの開催などで、壁画の復活を賑やかに祝った。再生プロジェクトでは、岡本太郎生誕100年となる2011までには、再生した作品に相応しい場所への恒久設置を目指している。
<日本テレビ『明日の神話 再生プロジェクト』など>
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