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おかもと かのこ

岡本かの子

おかもと かのこ

1889.3.1(明治22)〜 1939.2.18(昭和14)

大正・昭和期の歌人、小説家

埋葬場所: 16区 1種 17側 3番

 東京市赤坂区青山南町(東京都港区南青山)出身。代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商(多摩川畔二子の旧家)の大貫家の子として生まれる。本名カノ、旧姓大貫。ペンネームに大貫可能子。
 虚弱体質であったため父母と別居し二子(川崎市高津区)の本宅で養育母に育てられる。外で活発に遊べないことから養育母から源氏物語など教えられ、村塾で漢文などを習い始め、尋常小学校では短歌を詠んだ。
 跡見女学校入学頃より文芸欄などに短歌や詩の投稿をはじめる。この頃、兄の大貫晶川(雪之助)も文学活動を始め、谷崎潤一郎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受ける。17歳の頃に与謝野晶子(11-1-10-14)を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」「スバル」などに大貫可能子の名義で新体詩や和歌を発表した。
 19歳の時に、中井金三の仲介で兄の大貫晶川の部屋に遊びに来た東京美術学校生であった岡本一平(同墓)と知り合う。一平から求愛され、面食いだったかの子も受け入れ付き合いが始まる。'10 一平が東京美術学校を卒業し帝国劇場で舞台芸術の仕事に就いたことを機に、和田英作の媒酌で結婚するが、衣装道楽で不器量なお嬢様は岡本家に受け入れられず、2人だけの新居を構えることになった。'11.2.26(M44)長男の太郎(同墓)を産む。一平が24歳、かの子が21歳である。この時期、平塚らいてうに誘われ「青鞜」に参加。'12 処女歌集『かろきねたみ』を上梓。
 一平が朝日新聞に漫画連載を始め経済的な安定を得るが、若くして結婚した一平とかの子は、芸術家同士であるが故の強い個性の衝突や、一平の放蕩(ほうとう:酒や女に溺れる)に悩まされ、夫婦間は危機に瀕した。さらに兄の大貫晶川、翌年には母の死去が重なり、加えて長女を出産するも早死。神経衰弱に陥り精神科に入院するまでに苦しむ。一平から離れ環境を変えれば落ち着く望みを持ち、一平了承のもと、かの子を崇拝していた学生の堀切茂雄と同居を始めた。既に身籠っていた一平との次男を出産するも亡くなってしまう。
 原因をつくった悩みと救いたい一心の一平と、これを克服したいかの子は宗教に救いを求め、まずキリスト教の牧師を訪ねるも腑に落ちず、その後、親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され仏教に帰依。'18 第二歌集『愛のなやみ』を刊行したが、以降約10年間は仏教に関するエッセイを発表するようになり『散華集』などを刊行。仏教研究家として知られるようになっていった。
 青山に住んでいた頃に同居していた愛人のひとりで一平も了承済の恒松安夫(歴史学者・戦後に政治家・島根県知事)の中学時代の同窓の三明永無からの紹介で川端康成に会う機会を得、'23.8 銀座のレストランで一平も一緒に川端康成と会合する。以降、岡本家は川端康成と親交を持つようになり、かの子は戯曲や小説の試作を始めるようになる。'25 第三歌集『浴身』を刊行。
 だいぶ回復し落ち着きを取り戻した岡本家は、'29(S4)『わが最終歌集』を刊行後、同.12 一家でヨーロッパ旅行に行く。その際に、一平、太郎の他に、一平も認知しているかの子の愛人の恒松安夫と新田亀三も同行。ロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在。太郎は旅の途中にパリのソルボンヌ大学で勉強するため留まった。2年3カ月の間に9カ国を巡りアメリカ経由で、'32 帰国。
 帰国後、川端康成から小説の指導を受け、すぐにでも小説の執筆に取り組むつもりであったが、仏教に関するラジオ、講演、執筆の依頼が殺到し、小説は後回しとなり『観音経を語る』『仏教読本』などを刊行した。
 落ち着いた頃、川端康成の推薦で「文学界」に芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』(1936)を発表し小説家として文壇デビュー。次作は、パリに残した太郎への愛を描いた『母子叙情』(1937)を執筆し大きな反響をよんだ。さらに『花は勁(つよ)し』『過去世』『金魚撩乱(りょうらん)』(1937)、自由と虚無感を描いた『老妓抄』『巴里祭』『東海道五十三次』(1938)、『家霊(かれい)』(1939)と短期間に立て続けに発表した。
 '39 油壷の宿に滞在中、脳溢血で倒れる。この時期は別に恋人ができた恒松安夫は去っていたが、一平も認知して同居していた愛人で外科医師の新田亀三が献身的に看病をするも、2月に入り急変し、東京帝国大学附属病院小石川分院にて逝去。享年49歳。生前「火葬はきらい」と話していたこともあり、一平と新田は東京中のバラを買い占め、この多磨霊園の地に土葬として葬った(多磨霊園は外人墓地や一部の地区では当時土葬が認められていた)。仏教で救われたこともあるため、お墓は観音様。戒名は雪華妙芳大姉。
 没後、一平はかの子の死から14日後に追憶記の執筆をはじめ『かの子の記』(1942)として刊行。また寄稿を整理して未発表作品の出版に努めた。小説家である「私」が作品に行き詰まり河沿いに仕事場を借りるところから物語が始まる『河明り』(1939)、女性の生きる姿を諸行無常の流転を描いた『生々流転』(1940)、『鮨』(1941)、『女体開顕』(1943)。歌集『新選岡本かの子集』(1940)、随筆『観音経を語る』(1942)の名作が続々と遺作として発表され世人を驚嘆させた。洗練された都会趣味と華麗な近代感覚、旧家の出身ゆえの家霊の意識、仏教思想による女の業の哀切感などが織りなす独特の耽美的作風で、文体にも比類のない絢爛さを示した作家であった。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本大百科全書>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<平凡社百科事典>
<『一平かの子 心に生きる凄い父母』岡本太郎>
<日本史人物「女たちの物語」など>


墓地
墓地
墓地
墓地
墓地
墓地 桜

*墓所には三基。右手側の右に岡本かの子の墓「観音像」、台座に「岡本かの子」。左に岡本一平の墓「顔」、台座「一平」。向かい合って岡本太郎と太郎の養女の岡本敏子の墓「午後の日」、台座に「岡本太郎」が建つ。真ん中に川端康成の「母の手紙」序の岡本家に関しての碑が刻む。



第1回 岡本太郎のお墓ツアー


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