堺県和泉国第一大区(大阪府堺市堺区)出身。駿河屋という老舗和菓子屋を営む鳳宗七、津弥の三女として生まれる。旧姓は鳳(ほう)。名は志よう(しよう)。兄に電気工学者の鳳秀太郎がいる。
9歳の時に漢学塾に入り、琴や三味線も習う。堺市立堺女学校進学後は、源氏物語などの古典文学に親しむ。20歳頃より投稿を始め、最初のペンネームは鳳晶(ほうしょう)。関西青年文学会に参加し機関誌に詩や短歌を投稿。1899(M32)与謝野鉄幹(同墓)が創立した新詩社の社友となる。
1900 浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で来阪した歌人の与謝野鉄幹と山川登美子と出会う。鉄幹は教え子の林滝野と結婚しており子供もいたが、晶子は鉄幹と不倫の関係になる。鉄幹はこの時期に新詩社の機関誌『明星』を創刊したばかりで、晶子の歌人としての能力に惚れ込んで短歌を掲載していた。'01 晶子は鉄幹を追うように東京に移り、同年、鉄幹のプロデュースで、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を鳳晶子(ほうあきこ)名義で刊行。
「やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、近代の恋愛の情熱を大胆な官能とともに歌い上げ、日本的な艶(えん)の美学と、西欧の近代詩に近い方法を包摂した浪漫的一世界を開顕して、その華麗な作風は上田敏に「詩壇革新の先駆」と評価された。与謝野晶子の歌集は評判となり浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。
鉄幹と林滝野との離婚が成立し、晶子は鉄幹と結婚。鉄幹は三度目の結婚。二人の間には13人の子供を儲ける。内1人は死産、1人は2日後に亡くなったため11人を育てながら歌人としても活動した。なお、結婚後は、与謝野姓になったため、与謝野晶子として活動する。
「明星」の中心となり。小説、詩、評論、古典研究など多方面に活動をもつようになる。歌集はその後、'04 歌集『小扇(こおうぎ)』(1904)、鉄幹との合著歌集『毒草』を出版。'05 山川登美子・増田雅子との合著詩歌集『恋衣』を発表。これには日露戦争に際して歌われた有名な反戦詩『君死にたまふこと勿れ』が収められている。
『君死にたまふこと勿れ』は、'04 日露戦争に出征する弟を嘆いて歌った詠「あゝをとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ」から始まるもの。この作品は戦争に対する悲哀と評価された一方、非国民だとも言われ賛否が沸き起こった。この詩の3連目「君死にたまふことなかれ すめらみことは 戦ひに おほみづからは出でまさね」、これは「天皇は戦争に自ら出かけられないじゃないか」と歌ったもので、この表現が問題とされた。しかし、批判されたことに対し、与謝野晶子は「歌はまことの心を歌うもの」と反論した。大ごとにならずに終息。
'06『舞姫』を頂点として情熱の沈潜がみえ歌風も平淡になっていくが、浪漫的心情と作歌への情熱を生涯持ち続けた。この時期より、小説・童話・感想文など多方面にわたる活動を示した。
主な歌集は『佐保姫(さおひめ)』(1909)、『青海波(せいがいは)』(1912)、『火の鳥』(1919)、『流星の道』(1924)、『心の遠景』(1928)と変化をたどりつつ、没後に編まれた『白桜集』(1942)まで二十数冊を数える。評論活動も積極的で、『一隅より』(1911)、『激動の中を行く』(1919)、『人間礼拝』(1921)など十数冊に上り、その関心は広い社会的視野にたって婦人問題に注がれていた。女性に絶えず考える姿勢を求めつつ、その地位の向上への方途を説いたが、なかでも「母体の国家保護」をめぐる問題では平塚らいてうら婦人活動家と対立し、子供は一個の人格体としてとらえるべきだと主張するなど、自覚された母性の自恃(じじ)に基づいた確固たる女性思想を示していた。
少女時代から親しんだ古典の世界にも広がりを見せ、新詩社の例会では「源氏物語」の講義を続け、2回にわたって現代語訳に意欲をみせ、'12『新訳源氏物語』(全4巻)がある。他に『栄花物語』『和泉式部日記』などの現代語訳や研究を残している。
文学のみならず教育・婦人・社会問題に関する著述も多く、見識ある指導者としての役割も果たした。'21(T10)文化学院の創立に加わり、初代学監に就任して、教育活動にも熱心に取り組んだ。文学を通して幅広い活動の軌跡を残した。享年63歳。
<コンサイス日本人名事典> <小学館日本大百科全書> <講談社日本人名大辞典> <おおさか人物百科 与謝野晶子など>
*長男の与謝野光は公衆衛生学者の医学者。与謝野光は長男であるため多磨霊園の墓所に眠っているのか否かを調査していた折、2007年4月7日、与謝野光の娘にあたる五味恭子様よりご連絡を頂戴した。与謝野光の墓所は秋川カトリック霊園であり、また略歴などもご教示いただきました。著名人をきっかけに歴史を学ぶことをコンセプトとしている当サイトであるため、貴重な情報を残すべく、与謝野光のページを別ページにてつくり残しています。
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