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よさの あきこ

与謝野晶子

よさの あきこ

1878(明治11)〜 1942(昭和17)

明治・大正・昭和期の歌人、詩人

埋葬場所: 11区 1種 10側 14番

 本名晶。関西青年文学会に参加。1900(M33)来阪した与謝野ひろし寛(鉄幹)・山川登美子を知る。01家を捨てて上京。同年、処女歌集「みだれ髪」を出版し、鉄幹と結婚した。 奔放自由に青春の情熱と人間讃歌を歌いあげたこの歌集は明星派の指標となるとともに、近代日本文学史上浪漫主義詩歌の成立をつげる記念碑的作品となった。 04歌集「小扇」、鉄幹との合著歌集「毒草」を出版。05山川登美子・増田雅子との合著詩歌集「恋衣」を出版、これには日露戦争に際して歌われた有名な反戦詩〈君死にたまふこと勿れ〉が収められている。 06「舞姫」を頂点として情熱の沈潜がみえ歌風も平淡になっていくが、浪漫的心情と作歌への情熱を生涯持続けた。 06頃から小説・童話・感想文など多方面にわたる活動を示し、12「新訳源氏物語」全四巻も出版。 文学のみならず教育・婦人・社会問題に関する著述も多く、見識ある指導者としての役割も果たした。文化学院で教鞭もとった。

<コンサイス日本人名事典>


*晶子と鉄幹には13人の子どもを出産している。光、秀、八峰、七瀬、麟、佐保子、宇智子、アウギュスト(足昔{足ヘンに昔}。後に「いく」と改名)、エレンヌ、健、寸(2日後に死去)、藤子。なお、宇智子は双子で、一人は死産。 与謝野秀は外交官として活躍し、その子の与謝野馨は現在政治家として活躍し、通産大臣などを歴任した。 また次男の秀出生の際に鉄幹の弟の修の子である与謝野譲(3-2-41)を双子として一時届を出したことがある。

*与謝野家墓所の設計者は西村伊作。


与謝野鉄幹・晶子の墓
 鉄幹の七周忌のあと、晶子は昭和十七年五月二十九日に六十五歳の生涯を閉じた。 のちに、知人・門人の手によって建立された夫妻の墓は、三角屋根の明るい二墓同型のもので、 向って右側が晶子の墓、左側が鉄幹の墓。 正面にそれぞれの名を刻み、裏面に没年月日と享年、鉄幹の方は門人有志建之、晶子の方は知友門人建之と刻む。 台座の上(本来カロート部分)に晶子の歌が刻まれている。


鉄幹
今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野

晶子
なには津に咲く木の花の道なれどむぐらしげりて君が行くまで

どちらも晶子の筆跡で刻む。また墓域前入口の左右にも歌碑が刻む。
鉄幹側「知りがたき事もおほかた知りつくし今なにを見る大空を見る」寛
晶子側「皐月よし野山のわか葉光満ち末も終りもなき世の如く」晶子


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