与謝野鉄幹(11-1-10-14)の弟の与謝野修(同墓)の子で、外交官・政治家として活躍した鉄幹と晶子の次男である与謝野秀の従兄弟。
修の結婚前の子で一時鉄幹と晶子の3男として入籍した説や秀と双子の兄弟として一時入籍した説もある。
一高卒業後、'27(S2)帝大の新人会に入っていた譲は卒業後に渡独。
学生の頃から支那の国民党の革命記念日に演説するなど左翼活動を行っていた。
ベルリンでは共産党系の労農党が多い中、譲は日本国内の日労党系を支持していたため警戒されていた。
渡独した12月にブリュッセルで国際反帝同盟総評議会が開かれ、日本代表として片山潜のほか、ベルリン在住の千田是也が労農党代表として、譲が日労党代表として出席した。翌年からベルリン社会科研究会へ参加。
これは1926年末からの在独日本人若手知識人や留学生による、ブハーリン、スターリン、レーニン、マルクス、エンゲルスなどの著作を伏字なしで自由に読み、ドイツ資本主義や日本の情勢について活発な討論を行い、親睦を深めた勉強会のことであり、ベルリン反帝グループの前身。この読書会には経済史学者の土屋喬雄(15-1-4)も参加している。
この時期のドイツはナチス政権の前であり、ベルリンは世界の学術、文化、芸術の中心と言われていた。
このベルリン反帝グループの姉妹組織でパリで活動していたガスプ(在巴里芸術科学友の会)には、画家の内田巌(12-2-1-1)が参加していた。
これら左翼的活動をする傍ら、ドイツで1928〜34頃にベルリン在住の日本人向けに出されていた『ベルリン週報』という鈴木東民が始めたドイツ生活情報紙の編集や広告を集める中心的人物として協力。
また同じ頃に『伯林週報』という在独日本人相手の日本語新聞の編集にも関わり、ファシストの通信員として活動した。
享年36歳。戒名は観持院法浄信士。
ドイツ反帝グループと関わりを持っていた多磨霊園に眠る著名人は、経済学者の福田徳三(5-1-1-6):1898〜1902のドイツ留学。
政治学者の吉野作造(8-1-13-18):帝大新人会に影響及ぼす。
労働運動家の菊川忠雄(18-1-18):新人会を再建し譲に多大な影響を及ぼした人物。
経済学者の大内兵衛(6-1-11-11):労農派指導者。
共産党指導者の徳田球一(19-1-31-2):27年テーゼ指導。
政治思想史家の丸山真男(18-1-31)研究者として、蝋山・横田回想など。
経済学者で後に都知事になった美濃部亮吉(25-1-24-1):文部省在外研究員として32.3.19〜33.3までドイツ滞在など多い。