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きくかわ ただお

菊川忠雄

きくかわ ただお

1901.3.1(明治34)〜 1954.9.26(昭和29)

大正・昭和期の労働運動家、政治家

埋葬場所: 18区 1種 18側 1番

 愛媛県越智郡波方村(今治市)出身。今治中学校卒業後、一端商社勤務をするが、第一高等学校へ進学、学生時代に社会主義思想に触れる。1923(T13)東京帝国大学経済学部に入学し、学生自治権拡大運動や関東大震災被災者救援運動を指導し、新人会再建・学連の結成に活躍した。
 '25麻生久(9-1-13)らのすすめで総同盟に入り、翌年、組合同盟に移る。'28(S3)関東革技工組合委員長。'30全国労働組合同盟結成とともに教育部長となり以後、主事・会計・政治部長を歴任。'36全日本労働総同盟創立で本部総主事、関東同盟副会長。'41戦争政策に伴って、日本の労働組合が大日本産業報告会に集約されると、中央本部文化部副部長となるが内務省の反対で3ヶ月で辞任し、戦時中は労働運動から身を引いていた。
 戦後、'47〜'50日本鉱山労働組合会長。'49総同盟総主事を左派の高野実と争い敗れる。翌年総同盟解体問題では刷新強化運動を行ない、'51総評結成後は日本労働組合総同盟再建大会で総主事となった。この間、'47.4.25第23回衆議院議員選挙で東京第4区から日本社会党公認として出馬し当選。同選挙区のトップ当選は自由党の花村四郎(25-1-45)。'49の選挙では次点で落選したが、'51社会党の右左分裂以後は右派社会党に属す。'52ではトップ当選。'53も連続トップ当選した(当選3回)。党では中央執行委員を務めた。
 '54.9.26遊説先の北海道から東京への帰途中、青函連絡船の洞爺丸に乗船中、台風の影響にて函館市七重浜で沈没(洞爺丸事件)し遭難死した。享年53歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所地

*墓石は寝石の側面に「菊川忠雄之墓」。後ろにレンガ壁、その左側に功績が刻む墓誌碑。右側に金岡家の墓。墓誌もある。墓誌によると、菊川忠雄の妻の君子(同墓)が平成2年に亡くなったことにより、夫妻に継承者がおらず、忠雄の実姉である金岡シゲノ(同墓)の長男の嘉男が継承者となり、墓所を守ることとなったと刻む。

*菊川忠雄の戒名は忠闡院釋雄観居士。妻の君子の戒名は妙蓮院釋菊芳尼。遺された君子は洞爺丸事故遺族会の会長を務めた。また忠雄の跡を継ぎ、政治家となった。


【洞爺丸(とうやまる)事件】
 戦後最大の海難事故と呼ばれた事故である。1954年9月26日、折から接近していた台風15号(マリー)の中、青函連絡船上り第4便「洞爺丸」(4337トン)は、午後9時過ぎ、4時間遅れで函館を出航。しかし、弱まると見られていた台風は、津軽海峡付近で風速55メートルに達し、船長は港外仮泊を試みたが無理であり、暴風のため航行不能となり座礁、転覆、沈没した。乗員乗客1,314人のうち、乗員114人、乗客1,041人の計1,155人が死亡または行方不明。救助された生存者は159人であった。
 同年10月8日、相模湖で修学旅行生を乗せた遊覧船が定員35人のところ、78人が乗り、定員オーバーにより沈没、生徒22人が水死する事故が起こる。「相模湖の惨事」に関しては土肥章司のページへ。



第418回 洞爺丸事故 遭難死 日本海難史上最悪の事故
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