大分県玖珠郡東飯田村(九重町)出身。旧制大分中学校、大三高等学校を経て、1913(T2)東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学に熱中し、ロシア革命に関心を寄せた。
'17 卒業後、東京日日新聞に入社し記者となる。翌年「ピーターからレーニンまで」を連載し、ロシア革命を支持した。また同年、吉野作造(8-1-13-18)らを担いで大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を創設し、雑誌「解放」を編集。また東大新人会にも先輩グループとして参加。
'19 友愛会に入会し、協調主義的傾向の強かった友愛会を急進的・戦闘的な組織に改革していく。友愛会日立連合会主催演説会では、麻生ら組合幹部15人が検挙された。'20 全日本鉱夫総連合会を設立し、足尾銅山・日立銅山・夕張炭鉱などでの争議を指導、たびたび投獄された。
'25 友愛会の後身である日本労働総同盟の政治部長となり、無産政党運動に参加、翌年に結成された労働農民党の中央執行委員となる。労働農民党が党内の左右対立により分裂すると、三輪寿壮(23-1-1)らとともに日本労農党を結成した。以後、中間派の指導者として日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党と中間派無産政党の書記長・委員長を務めた。
'32(S7) 全国労農大衆党は社会民衆党と合併して社会大衆党となり、麻生は書記長に就任。この頃から、軍部の「革新派」と連携することで社会主義勢力の拡大を企図するようになり、'34 陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」なるパンフレットを発行すると、これを「軍部の社会主義的傾向の表現」として高く評価する声明を出した。以後、親軍派で国家社会主義の信奉者でもあった亀井貫一郎とともに社会大衆党の全体主義化を推進していく。
'36 東京から衆議院議員総選挙に出馬し当選、翌年も再選した。この年より日中戦争が勃発すると、局地解決・事変不拡大を条件に政府を支持、軍事予算も承認した。'38 近衛文麿を党首とする新党結成を画策する。'39 中野正剛(12-1-1-2)率いる東方会との合併を試み、右翼との連携を模索。'40.2 斎藤隆夫代議士の反軍演説問題については斎藤の衆議院除名に賛成の立場を取り、反対に回った党首の安部磯雄や議員複数名を党除名処分とし、自らが後任の社会大衆党党首となった。そして、近衛の新体制運動に積極的に協力し、同.7 他党に先駆けて社会大衆党を解党させた。第2次近衛内閣においては新体制準備委員会委員となるが、企図実らず、心臓麻痺のため急逝した。従6位。享年49歳。'58 麻生久伝刊行委員会の編集『麻生久伝』が刊行された。
<コンサイス日本人名事典> <政治家人名事典> <講談社日本人名大辞典> <ブリタニカ国際大百科事典> <人事興信録など>
*墓所には二基建つ。正面和型「麻生久之墓」、前面には「河上丈太郎 書」とあり、右面に略歴が刻み、最後に「昭和十六年」に建てたと刻む。右に並んで「麻生家之墓」、裏面「昭和六十一年九月建之 麻生良方」。墓所左側に墓誌が建つ。麻生久から刻みが始まり、戒名は〇正院禅為久。妻はヒサ。長男の良方の戒名は超證院釋良闡。良方の妻は照子。
*門下に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎(18-1-3-12)がおり、長男の麻生良方は浅沼稲次郎の秘書を務めた。その後、良方は民主社会党に移り、浅沼選挙区に刺客として送り込まれ、師弟対決へとなっていくが、浅沼稲次郎が暗殺されたため、浅沼稲次郎の妻の浅沼享子(18-1-3-12)と選挙対決をすることになる(麻生良方の頁へ)。なお、良方の子息の麻生輝久は新宿区議会議員である。
第416回 合法的社会主義政党「無産政党」の指導者 麻生久 お墓ツアー
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