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あさぬま きょうこ

浅沼享子

あさぬま きょうこ

1904.2.1(明治37)〜 1981.3.10(昭和56)

昭和期の政治家、浅沼稲次郎の妻

埋葬場所: 18区 1種 3側 12番

 大分県日田市出身。旧姓は武田。歯医者の娘として生まれる。大分県日田高等小学校卒業後、17歳で結婚したが、嫁いだ家が封建的な家でなじむことができず、離縁して、洋裁の学校に通うために上京。
 喫茶店で働いていたところ、社会主義運動に身を投じて、専らその喫茶店をたまり場としていた浅沼稲次郎(同墓)と出会う。1928(S3)浅沼稲次郎と結婚。稲次郎の妻となってからは、公私にわたり稲次郎をよく助けた。二人の間には二人の子どもを生んでいる。
 戦後、'45(S20)自らも社会党に入り、婦人問題研究会常務理事をつとめる。1960.10.12、近く解散総選挙が控える状況の中、日比谷公会堂での自民党・社会党・民主党の3党首立会での演説会が催され、社会党党首として夫の浅沼稲次郎が参加。演説中に突然壇上に上がってきた右翼少年に刺され暗殺された(社会党浅沼委員長刺殺事件)。
 浅沼稲次郎暗殺事件の後、右翼団体の暴挙を非難する抗議デモや集会が全国で行われた。集会には各地の合計で約44万5千人が、デモには約37万人が参加したと推計されている。そしてその死を悼んだ。この状況の中で、同.11.20 第29回衆議院議員総選挙が行われた。浅沼稲次郎の突然の訃報に対して、社会党は妻の享子を公認し、東京第一区から「暴力との戦いを訴えます」と立候補。担ぎされた形であったが、大衆の同情が集まり、稲次郎の対立候補であった麻生良方(9-1-13)を破り二位当選。なお、トップ当選は自由民主党公認の安井誠一郎(2-1-2-37)。
 この選挙では日本社会党は議席を増やし、民社党は議席を大きく減らして惨敗した。これによって日本社会党は野党第一党の地位を確立し、その後長く続く55年体制確立の原因となる。享子は衆議院議員をこの一期だけつとめ、次の選挙には出馬しなかった。なお、次の選挙では麻生良方が当選している。
 その後は、'64.9(S39) 中国建国15周年記念式に参列するなど日中友好につとめた。享年77歳。

<日本女性人名辞典>
<浅沼稲次郎小伝>
<婦人公論アーカイブ 昭和の手記傑作選「夫 浅沼稲次郎とともに」>


墓所 墓石の裏側

*墓石は洋型で「浅沼稲次郎之墓」。裏面は「浅沼享子 昭和五十六年三月十日卒 行年七十七歳」と刻む。

*以前は上記の写真のように墓石後ろに壁が建ち、その壁の左側に浅沼稲次郎直筆「解放」、河上丈太郎の書による浅沼稲次郎の碑文が掲げられていたが、現在はない。

<改修前の墓所>
墓所
あさぬま いねじろう 墓

「解放」の碑
碑 碑文



第327回 暗殺された夫の代理で出馬し当選
浅沼稲次郎の妻 浅沼享子 お墓ツアー


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