大分県日田市出身。旧姓は武田。歯医者の娘として生まれる。大分県日田高等小学校卒業後、17歳で結婚したが、嫁いだ家が封建的な家でなじむことができず、離縁して、洋裁の学校に通うために上京。
喫茶店で働いていたところ、社会主義運動に身を投じて、専らその喫茶店をたまり場としていた浅沼稲次郎(同墓)と出会う。1928(S3)浅沼稲次郎と結婚。稲次郎の妻となってからは、公私にわたり稲次郎をよく助けた。二人の間には二人の子どもを生んでいる。
戦後、'45(S20)自らも社会党に入り、婦人問題研究会常務理事をつとめる。1960.10.12、近く解散総選挙が控える状況の中、日比谷公会堂での自民党・社会党・民主党の3党首立会での演説会が催され、社会党党首として夫の浅沼稲次郎が参加。演説中に突然壇上に上がってきた右翼少年に刺され暗殺された(社会党浅沼委員長刺殺事件)。
浅沼稲次郎暗殺事件の後、右翼団体の暴挙を非難する抗議デモや集会が全国で行われた。集会には各地の合計で約44万5千人が、デモには約37万人が参加したと推計されている。そしてその死を悼んだ。この状況の中で、同.11.20 第29回衆議院議員総選挙が行われた。浅沼稲次郎の突然の訃報に対して、社会党は妻の享子を公認し、東京第一区から「暴力との戦いを訴えます」と立候補。担ぎされた形であったが、大衆の同情が集まり、稲次郎の対立候補であった麻生良方(9-1-13)を破り二位当選。なお、トップ当選は自由民主党公認の安井誠一郎(2-1-2-37)。
この選挙では日本社会党は議席を増やし、民社党は議席を大きく減らして惨敗した。これによって日本社会党は野党第一党の地位を確立し、その後長く続く55年体制確立の原因となる。享子は衆議院議員をこの一期だけつとめ、次の選挙には出馬しなかった。なお、次の選挙では麻生良方が当選している。
その後は、'64.9(S39) 中国建国15周年記念式に参列するなど日中友好につとめた。享年77歳。