東京都出身。麻生久(同墓)の長男。少年時代より詩集を書き、1943(S18)詩集『青薔薇』を自費出版している。
'45 早稲田大学を中退。日本社会党本部に入り、'50 父の麻生久を師と仰いでいた浅沼稲次郎(18-1-3-12)の秘書となった。'59.6.2 第5回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から社会党公認で立候補するが落選。参院選敗北の総括と60年安保闘争の運動方針をめぐって、同.10 社会党右派の西尾末広派が日本社会党から脱党。さらに同じ右派の河上丈太郎派の一部も同調し離党。麻生良方もこれに伴って離党。'60.1 民主社会党(民社党)の結成に参加した。
同年秋の第29回衆議院議員総選挙では、浅沼稲次郎の東京1区に刺客として送り込まれ、かつての師匠との全面対決に挑むことになった。同.10.12 自民党・社会党・民社党3党首立会での演説中の浅沼稲次郎が刺殺され暗殺されてしまう(浅沼稲次郎暗殺事件)。浅沼稲次郎が亡くなった社会党は、浅沼稲次郎の妻の浅沼享子(18-1-3-12)を後継として立候補させた。同.11.20 第29回衆議院議員総選挙の東京1区では浅沼享子に同情票が集まり、逆に麻生は「裏切り者」との批判を受け落選した。なお東京1区のトップ当選者は安井誠一郎(2-1-2-37)、浅沼享子は2位、田中栄一、原彪之助までが当選した。
'63.11.21 第30回衆議院議員総選挙に民社党公認で東京1区から出馬し、田中栄一に次いで2位当選を果たす。これが初当選となった。以後3回(第31回、第32回)連続当選を果たす。党副書記長などを歴任した。'65 国会内の芸術議員連盟を基盤として、通商産業省認可団体社団法人国際芸術見本市協会を設立、初代理事長に就任.翌年 協会最初の事業として第1回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)をニューヨークにおいて開催した。
'72.12.10 第33回衆議院議員総選挙に落選したのを機に離党し、政治評論家として活動する。'76.12.5 第34回衆議院議員総選挙に無所属で東京1区から立候補してトップ当選を果たし返り咲いた。なおこの時の2位当選者は与謝野晶子(11-1-10-14)の孫の与謝野馨であり初当選であった。'79.4.8(S54) 衆議院議員を辞職し、東京都知事選に無所属で立候補。鈴木俊一、太田薫と争うも落選。同.10.7 第35回衆議院議員総選挙にも出馬したが落選したことで政治家廃業宣言を行った。
以後は、麻生情報文化研究所を設立して所長として活動した。著書に『私の手も汚れていた』『革命への挽歌』などがある。なお、三島由紀夫(10-1-13-32)と親交が深く、三島由紀夫の作品『贋ドン・ファン記』のモデルである。'94(H6)勲二等瑞宝章。享年71歳。